それでも映画は廻っている

自分の映画 アニメ 特撮などへの考え方を明確にするためのブログです。

アイデンティティーの消失の果てに 「ブレードランナー2049」

 

今回は、自分の琴線にダイレクトに引っかかった映画に出会い、是非とも文章を書きたいと思ったので、記事を書きたいと思います。僕がこのブログでもたびたび書いてきた「アイデンティティー」についての映画でもありました。過去の記事についてはこちらのリンクからご覧ください。

それでは本文に移りたいと思います。

 

 

注意 今回紹介する作品は、ネタバレ厳禁な映画となっています。未見の人がこの記事を回覧することを想定していませんので、ご注意を。

 

 

 

不可能を可能にしてしまった映画 「ブレードランナー2049」

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http://saku-ara.com/archives/3765

 2049年遺伝子工学によって誕生したレプリカントはさらに進化を遂げ、より人間に近づいていた。一方で、旧型モデルのレプリカントは人間にとって代わろうとするなど、危険視されて排除されていた。その排除の役目を担うのは、新型レプリカントであり、彼らはブレードランナーと呼ばれた。Kは、LAPDのためブレードランナーとして忠実に働き、古いモデルのレプリカントを逮捕・抹殺していた。  Kは任務の中で、「子供を出産した女性レプリカント」の遺体を発見する。Kの上司は、その事実にショックを受け、世界の秩序を守るために子供の処分をKに命じる。捜査の中で、Kは自分に幼少期の記憶があることに気づく。そして、自分こそがレプリカントが産んだ子供ではないかと考え始める。そして、ついに彼は子供の父親である元ブレードランナー「リック・デッカード」に出会うのだった。

 

僕はこの映画 絶対に失敗すると思っていました。なぜならば、この映画は、「ブレードランナー」の続編だからです。ブレードランナーを一度でも観たことのある人の内100人中100人が、続編と言う企画が成功するとは答えないでしょう。あまりにも前作の存在は巨大であり、その続編ともなると、出来が危ぶまれていました。しかし、やってくれました。ドゥニヴィルヌーヴ監督は見事に成し遂げたのです。まさかここまで感情を揺さぶられるようなエモーショナルな映画になっているとは思いませんでした。では、具体的な内容の話をしていきます。

 

1 Kと言う男が抱えるもの

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まず、この映画を語るうえで外せないのが、主人公であるKのキャラクターでしょう。

彼はネクサス9型でありながら、ブレードランナーとして同族を殺す仕事をしている男です。しかし人間達からは蔑まれ、友達はおらず、自宅のドアにも悪意ある落書きがされている有様でした。彼は徹底して「孤独」を抱えたキャラクターです。そんな男をライアンゴズリングに演じさせたのが、まず何よりも素晴らしい点です。ライアンゴズリングは「ハーフネルソン」「ラースと、その彼女」「ドライヴ」などで「本質的には孤独である男」を演じてきました。今回のKも、その系譜に連なる役であると思います。Kは、サッパーと言うレプリカントを「解任」する任務の途中に発見した子供を産んだ形跡のあるレプリカントの遺体と、その子供が預けられた孤児院で、自分が元々持っていた木馬を隠した記憶と完全に一致した情景を見て、自分こそがレプリカントと人間との子供であると感じ始めます。その真相を確かめるべく、30年前に逃亡したブレードランナー デッカードのいるラスベガスへと向かいます。Kと言う男は孤独だといいましたが、彼を唯一理解し、健気な愛情を注いでくれるのは、ホログラムのジョイという存在です。

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彼女を演じるアナ・デ・アルマスは、この映画で世界中の観客を虜にしたことでしょう。かくいう私もその一人です。孤独な男をたった一人理解してくれる女の子も、プログラムされた愛情であり、実体はなく、決して交じり合えないという残酷さ。彼女が何とか実体を得ようとして、娼婦の女の子と自分を同期させてまでKと交わろうとするシーンは切なくて泣いてしまいました。しかし、彼女が「死」という一点で人間と同一になり、Kの孤独な旅路に同行します。ですが、ここからKの不幸の連鎖が始まります。レプリカントの記憶を作る技師に会いに行き、自分の記憶を判定してもらいますが、木馬の記憶も、実は作られた記憶であることが判明します。さらに、デッカードに会いに行ったは良いものの、敵の尾行にあっており、デッカードも連れ去られた挙句、ジョイを失ってしまいます。ここまででも十分に不幸な目に合っていますが、これが最後ではありません。これを含めた物語の最終盤の部分は後述します。次は、デッカードを含む残りのキャラクターについてです。

2「愛」を抱えたキャラクターたち

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前作でレプリカントのレイチェルと共に逃亡したデッカード。30年後の彼は、放射能渦巻くラスベガスで隠遁生活を送っていました。彼は、レイチェルとの間に子供を授かることが出来ました。ですが、レイチェルは子供を産むと同時に死亡。当局に追われる可能性があったために、出産に立ち会うこともなく、子供と生き別れになり、一人孤独に生きることを選んだのです。「誰かを愛するためには、時に他人にならなければならない。」彼の選択はひとえに、レイチェルへの愛のためでした。だからこそ、ウォレスによって作られた30年前の姿を完全に再現したレイチェルを目の前にしても「彼女の瞳は緑だった」と言って拒否します。彼によって自分たちの愛は仕組まれたものではないかとと問いを投げかけられても、彼はブレません。愛を貫き通した男として、非常に完成されていました。

 

レプリカントを製造するウォレス社の社長。ウォレスは、創造主であり、神を目指す男として描かれています。命を生かすも殺すも自由な彼は、自らの作ったレプリカントを「天使」と呼びます。このような点も含め、聖書的なモチーフが多いです。「悪い天使がいた」と彼は言いますが、これは前作での最重要キャラクター「ロイ・バッティ」の事です。「失楽園」における創造主たる神を裏切った大天使ルシファーです。それに対し、忠臣のような役割を果たすのが、ネクサス9型の殺人レプリカント ラヴです。

彼女はウォレスを愛する大天使の役割を果たします。彼女は人を殺すときに必ず涙を流します。これも、共感性が備わったネクサス9型ならではの特徴と言えるでしょう。

このように、この映画の登場人物は、それぞれが「愛」を抱えています。それがプログラムされていた物だとしても、人を愛する気持ちに、優劣はありません。人間かレプリカントか。その違いはもはや存在しないといっていいでしょう。大事なのは、どう生きるか。人と機械の差は、そのようにして判断されるのではないのでしょうか。では、最終盤の展開について言及していきます。

3 大義のために死ねるか? 他人のために死ねるか? 

レプリカントによるレジスタンス組織に救出されたK 彼はそこで、信じがたい真実を聞くことになります。レイチェルの子供の性別は女の子であり、男の子ではないということです。自分がその子供だと信じてきた彼の希望は、無残にも打ち砕かれてしまいます。しかしそれでも、彼は自分がレプリカント以上の存在になるために、「大義のための死」を成そうとします。ラヴによってオフワールド(外宇宙)に連れて行かれそうになっていたデッカードを救出しようとします。彼はレジスタンスに、デッカードを殺すよう指示を受けていましたが、殺すことはせず、レイチェルの娘であるレプリカントの記憶技師、アナ・ステリンの元へデッカードを連れて行きます。そこで彼は、自分の偽造された記憶である木馬を、デッカードへと渡します。それによって、自分と言う存在がデッカードの記憶の中に存在し続けることを願ったのでしょう。Kは、ラヴとの戦いで負った傷のせいで、地面に倒れこんでしまいます。そこでは雪が降っていました。その雪を見つめながら、彼は死んでいきます。前作のブレードランナーが雨の映画だとしたら、今作はまさしく雪の映画でしょう。Kと言う男の生き様が、雪によって象徴されています。このシーンで流れる音楽は、前作においてロイ・バッティが雨の中で独白をする名シーンの音楽がそのまま使われています。30年前に「愛」に目覚めたレプリカントに助けられたデッカード。そしてまた、彼は父と娘の「愛」のために戦ったレプリカントによって再び命を救われたのです。このラストシーンは、非常に感動しました。それまで存在を否定されてきた男が、誰かのためにその命をささげる。僕の大好きな物語構造です。世界から切り離されている男の右往左往。これは遠い未来の話ではなく、今現在のSNS時代の人間の象徴ともいえます。コミュニケーションと言う概念が希薄になっているこの時代、誰かのために、愛のために生きることが本当の意味で出来る人間が果たして存在するのでしょうか。人間の本質とはなんなのか?「愛」である。この映画はそのメッセージを、儚くも力強く、我々に伝えてくれたような気がします。

4 アンドロイドは人間の夢を見たか?

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は今作の物語は「ピノキオ」であるとインタビューで語っています。どちらも人間になろうとする男の物語です。それに加えて、僕は同じくピノキオを元にした作品である「A.I」も連想しました。主人公がどんどん不幸な目にあって行くのも似ていますし、「愛」の物語である点も共通しています。主人公が辿る結末も似ています。ブレードランナーと言う映画の本質は、生命体が持つ感情を巡る話だと思っているので、この点をさらにブラッシュアップしてきたことをうれしく思っています。前作では感情の中心が主人公ではないという問題点?がありましたが、今作はしっかりと主人公に感情移入できます。不可能だと思われた続編を、こんなヒューマニズムあふれる物語に仕上げるなんて、僕は思ってもみませんでした。非常に素晴らしい傑作をありがとう、ドゥニ・ヴィルヌーヴ