それでも映画は廻っている

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「青ブタ」という事象を観測する オマージュが織りなすセカイ系の相対化と再定義 「バニーガール先輩」から「迷えるシンガー」までの夢を見ない

今回は、僕が人生で初めて大ハマりしたと言っても過言ではないライトノベルシリーズ

青春ブタ野郎シリーズ」について書きたいと思います。このシリーズは、たかがライトノベルと侮ってはなかれ、恐ろしく練り上げられたストーリー 随所に配置されたオマージュ 誰もが愛おしいキャラクター これら全ての要素が最高純度で詰め込まれたとんでもないシリーズなのです。その魅力をこれから書いていこうと思います。それでは、本文をどうぞ

注意 この記事には、「青春ブタ野郎シリーズ」の1~10巻に関する内容及び、それらがオマージュしている作品群に関するネタバレが含まれます。特に5巻以降の感想は絶対に未見の方は読まないでください。

 

 

序文 青春ブタ野郎はSOS団の夢を見ない

まずは、シリーズ全体についての話をしていこうと思います。このシリーズ全体のざっくりとしたプロットを説明しましょう。主人公は、峰ヶ原高校2年1組。出席番号1番。梓川咲太。彼は、過去の噂のせいで周囲から孤立しているが、周りの空気に流されず、2人の友人と共にありふれた日常を過ごしていた。ある時、図書館で同じ学校の先輩、桜島麻衣と遭遇したことから「思春期症候群」と呼ばれる怪異に巻き込まれることになる。というのがおおまかなプロットです。基本的には、このシニカルな男子高校生咲太君の視点で物語は進行していきます。各巻ごとにメインとなるキャラクター及びヒロインが存在し、彼女たちとの関係性の構築によって物語は進んでいきます。ここまで書けば、ライトノベルと言うジャンルにはよくある話だと認識されるかもしれませんが、このシリーズの最大の特徴は、”よくある”というくくりに嵌めるには失礼なほどに計算され、膨大に詰め込まれた過去の作品群へのオマージュと、「コミュニケーションとは何か」を巡る、非常に現代的な事柄を絡めながら提示されるテーマ性の妙であると思います。まず連想するのはやはり谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」でしょう。斜に構えた男が、運命の女との出会いによって、怪異に巻き込まれていく”SF” 青ブタという作品に僕が最初に感じた印象は「2010年代に登場した涼宮ハルヒ」というものでした。各巻ごとに示されるモチーフは、SFファンをにやりとさせるようなディティールに満ちています。それと並行して語られる思春期というモラトリアムならではの問題意識、コミュニケーションへの批評は、非常に普遍的なものであるといえます。この点が、この作品が持つ「矜持」の現れであると思います。そしてそれが、日本エンタメ史の相対化と批評に逆説的に到達しているのです。さて、それでは各巻ごとの詳細な感想を語っていこうと思います。

 

本論 各巻感想

第1巻「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」

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メインキャラクター 桜島麻衣 

思春期症候群 「存在の消失」

周りの空気に流されない男 梓川咲太が図書館で出会ったのは、バニーガール姿の女子高生、天才子役としての過去を持つものの、現在は引退状態にある女性 桜島麻衣。彼女の存在は、咲太以外には認識されず、徐々にその範囲も広がっていってしまう。彼女の存在は「シュレディンガーの猫」のように、観測者なしではその存在を確定できない。そして、観測者であった咲太すらついにその存在を忘れてしまう。だがテスト勉強で漢字を一緒に勉強したことがトリガーとなって、咲太は麻衣の存在を思い出す。そして、彼女の存在を世界に観測させるために、全校生徒の前で咲太は麻衣に告白をする。そうした結果、彼女の存在は無事に世界に認識されるようになる。

記念すべき第1巻。まず、この第1巻の出来が非常に素晴らしいからこそのシリーズだと言える。このシナリオの時点で、オマージュは数多い。そもそものタイトル「青春ブタ野郎は○○の夢を見ない」からして、フィリップ・K.・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見ない」であるのは分かり易いあたりだが、お話はむしろ同じフィリップ・K・ディックでも「流れよわが涙、と警官は言った」のオマージュではないだろうか。「流れよわが涙」は、世界に自分の存在した証拠がある日突然消えてしまう人の話であるが、まさにこの第1巻の内容そのままである。また、主人公の梓川咲太はバニーガール、即ち「ウサギ」に出会ってからめくるめく奇怪な体験を経験することになるが、これはルイスキャロルの「不思議の国のアリス」だろう。また、この第1巻はある種の「セカイ系」へのアンチテーゼとしても機能しているのが面白い。つまり、男女の恋愛関係と言う名の内向きの「セカイ」に引きこもる話ではない。そもそもの思春期症候群の発生の要因が、桜島麻衣を”いないもの”として扱う周りの「空気」という点なのも非常に面白い。クライマックスの告白は、「世界」に居場所を作るための行為であり、「セカイ」の否定なのである。このテーマ性はこれ以降にも脈々と引き継がれることになる。

咲太は告白の一か月後、麻衣から正式にOKをもらうことに成功するも、その日の翌日は、告白をする日に戻ってしまっていた。この事象の原因は何なのか?……

 

第2巻「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」

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メインキャラクター 古賀朋絵

思春期症候群 「同じ一日を繰り返す」

ループ現象の原因は、高校の後輩 古賀朋絵が引き起こす思春期症候群であった。朋絵はとある事情で3年の前沢からの告白を回避しなければならない状況にあり、回避するまで同じ日を繰り返していた。咲太は朋絵に頼まれて、嘘の恋人関係を演じることになる。だが、朋絵は自分を巡る咲太と前沢の喧嘩やデートを経て、咲太に対して恋心を抱くようになる。嘘の恋人関係を解消する約束だった一学期の終業式の日を終えるも、本心では別れたくない朋絵が再び思春期症候群を発症して今まで抑えられていたループ現象が再び始まってしまう。4回のループの後、朋絵を咲太が振ることによって、この思春期症候群は収束する。そして、咲太の前に「初恋の人」と同姓同名だが、年齢は低い少女 牧之原翔子があらわれる。

ここへきて定番ジャンル「ループ物」が来るわけだが、この2巻は特にシナリオの構成がクラシカルなジャンル本来の魅力に満ちている。ループ現象の原因が当事者の精神の乱れにあるという設定は谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」や、押井守うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」ハロルドライミス「恋はデジャ・ブ」といった作品群を非常に連想させる。ループ物というジャンルはともすればセカイ系と密接にコミットしてしまう危険性を孕んでいるが、ここでは、咲太があくまでも麻衣を選ぶという選択によってそれを回避している。何故ならば、このシリーズにおいて桜島麻衣は一貫して「”世界”で得られる幸せ」の象徴であるからだ。このシリーズは、”運命の女”の役割を持つ女性が2人いるという特異なシリーズであるが、後々にこの「世界」と「セカイ」の二者択一というシチュエーションが最悪の形で反復されることになる。それはまたその時に。

 

第3巻「青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない」

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メインキャラクター 双葉理央

思春期症候群 「ドッペルゲンガ―の出現」

咲太は科学部の友人である双葉理央が2人に分裂する思春期症候群を発症していることを知る。理央の親しい友人である咲太と国見佑真は二人とも彼女がおり、理央は独りになってしまうという不安から、誰かにかまって欲しくてSNSで性的なものを漂わせる写真を上げ始める。その結果、誰かにかまってほしい理央とそのための手段を許さない理央の二つの存在に分裂してしまった。海岸で花火をして夜を明かした咲太と理央と国見の写真を見たもうひとりの理央は、自分の存在が要らないと考え失踪してしまう。しかし、咲太の言葉に気持ちを変えられた理央は電話を介してもうひとりの自分と話すことで、一つの存在にもどることができた。その後、理央は、国見へと想いを伝え、自分の気持ちに折り合いをつける。

青ブタの巧さが良く表れた巻である。何故ならば、ドッペルゲンガ―現象を女子高生の「裏垢」と結びつけるという非常にクレバーなアイディアに基づいた話だからだ。ドッペルゲンガ―現象が当事者の性的な事柄のメタファーである点はドゥニヴィルヌーヴ監督の「複製された男」に近い。双葉理央というキャラクターが抱える葛藤も非常に胸を打つ物語に仕上がっている。寓話としての側面が最も強い巻であった。

 

第4巻「青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない」

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メインキャラクター 豊浜のどか

思春期症候群 「精神の入れ替わり」

夏休みが終わり、2学期の初日。麻衣に声をかけた咲太は、何かがおかしいことに気付く。麻衣と体が入れ替わってしまった麻衣の腹違いの妹 豊浜のどか。麻衣と彼女はある日大喧嘩をしてしまい、思春期症候群の解決のために、咲太は2人を仲直りさせようと奔走することになる。咲太はのどかに、麻衣が「宝物」として大切に保管していた何通もの麻衣宛てののどかからの手紙を見せる。そして麻衣との仲直りを経て「麻衣のようにならなくてもいい」ことをのどかが知った瞬間、思春期症候群は解決し二人の体は元に戻った。

この巻は正直なところ、「置きに行った」感が強く、良く言えば無難 悪く言えば凡庸な話になってしまっている。入れ替わりものと言えば大林宣彦の「転校生」だが、あちらと違って入れ替わりそれ自体による面白さではなく、あくまでものどかと麻衣という姉妹のディスコミュニケーションを解消する話に仕上げているのは実に青ブタらしいが、ティーン向け小説の域を出ていないほどにキャラクターの葛藤が今までの比になく類型的なのはやはり気になってしまう。だが、この次の巻から、恐ろしく凄まじい展開が連続するので、この巻はさながら嵐の前の静けさといった趣だろうか。

 

第5巻「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川かえで

思春期症候群 

咲太の妹 梓川かえでは、中学時代に受けたいじめが原因で、「家好き」少女になっている。かえでは家好きを克服するために「お兄ちゃん以外の人と電話をする」などの目標を立てる。そして、何とか外に出ることができるようになってきたかえでは、昔の幼馴染の鹿野琴美と再会するも、覚えていないと言う。そこから、かえでに隠された秘密が明かされる。咲太の妹 梓川”花楓”は、いじめが原因で解離性記憶障害を発症し、それまでの記憶を消去し花楓の中に新たな人格を形成した。そのショックに耐えかねた咲太が訪れた海で「初恋の人」牧之原翔子に価値観を変えられ、花楓に「梓川かえで」として生きることを提案した。琴美からの手紙を見て意識を失ったかえでは病院に救急搬送されるも無事であり、やがて退院することができた。しばらくして咲太と動物園に行ったかえではその日に学校に行くこともでき、すべての「今年の目標」を達成することができた。しかし翌日、目を覚ましたのは花楓だった。花楓の入院する病院から抜け出して病院の外でどうしようもない気持ちを叫ぶ咲太の前に現れたのは、2年前に海で会った翔子から2歳ほど歳をとった翔子。その翔子からかえでが「今年の目標」を立てた理由を聞いた咲太は、かえでを失った悲しみを抱えながらも現実と向き合う努力を始める。

青春ブタ野郎シリーズ史上、最も哀しい話であると思う。1巻から登場し、マスコット的なかわいさを発揮してきたかえでという存在に秘められたあまりにも重い過去が明かされる。しかも、1巻の時点で伏線は存在していたという用意周到ぶり。この巻から目立つのは、小説と言う媒体を生かした演出である。「かえでは『花楓』じゃなくて、『かえで』だから」というセリフのような、文字でしか伝わらない感動を与えてくれる場面が多く出てくる。その極致と言えるのが、クライマックスのかえでの日記の朗読シーンであろう。この場面を読んでいるとき、涙で文章が読めなかった。この文章を書いている今も思い出して泣いている。何故あのシーンがあそこまで感動的なのかと言えば、「見る、見られる関係の逆転」が起きているからだ。是枝裕和の「そして父になる」のクライマックスのカメラのシーンと同様である。「覚めない夢の続きを生きていた」少女とのあまりにも哀しい別れ。咲太の凄まじいメンタルには感服するばかり。しかし、これだけでは終わらない。この話を超えるハードな展開を見せるのが、次の巻である。

 

第6巻「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」

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メインキャラクター 牧之原翔子

思春期症候群 「タイムトラベル」

クリスマスまで1ヶ月をきったその日。花楓の一件の後、咲太と翔子は同棲状態だったが、そこに麻衣が現れることによってちょっとした修羅場になってしまう。そんな中、中学生の翔子が心臓の病状の悪化により入院していることが発覚する。そこから、大人の翔子の秘密が明かされる。彼女は、中学生の翔子の「大人になりたくない」という気持ちが生んだ思春期症候群によって、先の未来の時間からやってきた存在だという。彼女の目的はただ一つ。2014年12月24日 交通事故によって死んでしまう運命にあった「初恋の人」咲太を、自分に心臓を託してくれた咲太を死の運命から救う事。これを聞いた咲太は、自分が生きて翔子が死ぬか、自分が死んで翔子が生きるか。という2択を迫られる。咲太は後者を選択し、事故現場に向かうものの、咲太が死ぬことはなかった。咲太を庇って、麻衣が事故の犠牲になってしまった。

とんでもない展開を見せるこの6巻。ここで前述した「世界」と「セカイ」の二者択一が再び迫られる。つまり、「世界」の体現者たる桜島麻衣と、「セカイ」の体現者たる牧之原翔子。どちらを選びとるのかと言う選択だ。そもそもこの翔子の動機からして非常にセカイ系的、もっと言ってしまえば、日本人的な発想のもとでのタイムパラドックスである。6巻と7巻は事実上の前後編なので、扱われている事象は同一である。僕が何よりもグッとくるのは、この最後の最後で扱われるのが「タイムトラベル」という、日本エンタメ史において非常に重要な位置を占めるジャンルだということだ。僕が以前この記事(http://slyuroder.hatenablog.com/entry/2017/05/28/133751)で指摘したとおり、日本のエンタメとは「出会いと別れのセンチメンタリズム」に終始する。それを非常に表現しやすいジャンルこそが、タイムトラベル物だ。さらにそれこそ、「難病もの」こそがその極致と言えるだろう。だが、人の死をポルノ的に消費する難病ものを主題に置くのではなく、自己犠牲をいとわないタイムパラドックスによる過去改変という展開を作りやすいタイムトラベルものにしたあたりが、このシリーズの信頼できる点であろう。衝撃的なラストで幕を閉じるこの6巻。いつもは存在するあとがきがないこともこの地獄の余韻を増幅させてくれる。果たして、どのように物語は帰結するのか。

 

第7巻「青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川咲太

思春期症候群「タイムリープ

麻衣の死によって、呆然自失の日々を送る咲太。麻衣の告別式の日 咲太の目の前に現れたのは、消失したはずの牧之原翔子。彼女は改変によって麻衣の心臓をもらい、生き延びていた。翔子は咲太を誰もいない峰ヶ原高校へと導き、咲太自身が翔子と同じ思春期症候群を発症していることを告げる。そして、麻衣を救うために、咲太はもう一度12月24日へと戻ることになる。そこから咲太は、観測者がいないために誰からも認識されない状況に追い込まれるものの、古賀朋絵のおかげで観測される。そこから、過去の自分へ連絡を取り、麻衣が死ぬ未来を変えようとする。結果、無事に麻衣と自分を事故から救うことに成功する。そして、咲太は気づく。未だ翔子の思春期症候群は終わっていないことに。正確には「咲太たちが生きている時間軸が実は未来であった」ことに気付く。咲太は、3年前の「今」を生きる小学校4年生の牧之原翔子を救うため、「現在」の中学校1年の牧之原翔子の元に向かう。そして、世界は改変された。牧之原翔子という存在が、咲太に出会わなかった世界に…… この世界線でも、咲太は麻衣たちと出会い、人間関係を構築していた。この世界線の麻衣は中学時代に心臓病の少女を演じ、以前の世界線で翔子が鳴っていた病気に光が当たっていた。そして、七里ガ浜海岸、咲太が初めて翔子と出会った場所に、一組の家族を見つける。そして、咲太は知らないはずの名前を呼ぶ「牧之原さん!」それに、翔子は答える「はい、咲太さん!」

完璧だ。完璧である。この第7巻で、「青春ブタ野郎シリーズ」は日本エンタメ史にその名を刻む完璧なシリーズになったのである。まず素晴らしいのが、この第7巻のシナリオが、それまでの6巻分の展開すべてをなぞっていると言う点。咲太は「存在が認識されなくなる状態」で「一度経験した日を繰り返す」そのなかで、「もう一人の自分」と邂逅し、「入れ替わろうと」する。そして掴み取った未来で、ハツコイの人、牧之原翔子の「記憶を持って生きていく」それを糧に「未来で再開する」本当に巧みな構成である。そして、この巻においては、牧之原翔子の役割は咲太を「世界」に導く役割となっていて、役割が反転している。それはなぜか。この世界線においては、翔子の心臓は「世界」の体現者 桜島麻衣の心臓であるからだ。6巻での理央と咲太の会話で示されていたとおり、心臓移植をするとドナーの性格に似通るという事例を、咲太の性格を構成するためのタイムパラドックスと言う事例だけに収まらず、この巻でも非常に象徴的に活用している。SF要素も過去最高峰のクオリティ。時間とは、各個人の「認識」でしかないという価値観は、テッドチャンの「あなたの人生の物語」を連想させる。しかもそれは、1巻から繰り返し描いてきた思春期特有の「空気を読む」という行為に象徴されるコミュニケーションへの認識の問題とも見事に符合する。そして、オマージュのキレ味も実に鮮やか。青ブタの舞台は、2014年の神奈川県藤沢市近辺(筆者の地元です)であるが、咲太が過去に戻る日付は、12月27日。2014年の12月27日は「土曜日」である。そして、土曜日の学校の「実験室」へ向かう。もうお分かりだろうが、これは筒井康隆の「時をかける少女」のオマージュである。最後の最後で日本エンタメ史の最重要作の一つへと、しかもカレンダーを自分で調べなければわからないという巧妙なやり方でオマージュをささげるというのは非常にグッとくる。また、死んでしまった愛する女性を救うために過去へ戻る男の話というのも、「バタフライエフェクト」や「シュタインズゲート」等を思い起こさせる。一番近いのはトニースコット監督の「デジャヴ」であるとは思うのだが。そして、この作品の最終的な結末は、この作品独自の、非常に優しい結末である。まず、事態の発端となる咲太の思春期症候群が引き起こされる原因は、咲太の「弱さ」故である。しかしそれを、夢のような存在である翔子は優しく肯定してくれる。未来を変える糧として。ここでまた素晴らしく巧い展開が待っている。1巻では眠るという行為は、麻衣を忘れてしまうという行為だったのが、この7巻では、麻衣を救うために眠るのである。この巻は1巻との対比が良く目立つ。表紙の構図と色が同じなのも気が利いている。咲太がウサギの着ぐるみを着るのも、麻衣のバニーガール姿の対比であるということと同時に、麻衣という「アリス」を導き出す「ウサギ」に、咲太自身がなるという反転である。そして、そこから先こそがこの作品の凄まじいところである。終盤、咲太と病床に伏している翔子との会話シーン。ここまで追い込まれてもなお咲太を想う翔子の姿に、そして将来スケジュールに”花丸”をつけてあげる「優しさ」には、ここまでで枯れるほど涙を流している自分も涙を止められなかった。そして、その「優しさ」をもって、誰かが幸せになる未来を願い続けた者たちへの賛歌として、あの大団円のラストがある。「魔法少女まどか☆マギカ」を彷彿とさせる新世界の創造だ。6巻で描かれた「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」という普遍的命題は”夢がない”ものかもしれなかった。しかし、人は、将来への願望を夢見ることによって、誰かの幸せのために生きようとする。まさに「夢追い人へ乾杯を」である。この物語は最終的に「世界」と「セカイ」が一つにつながって終わる。これは、「エヴァ」以降の日本製エンタメがおこなってきた非常に内向きな自我の内部化とは対照的に、とても外側に向いた結論である。したがってこれは、ご都合主義と揶揄されるような展開では断じてない。セカイ系を相対化し続けてきたこのシリーズが辿りつく必然なのである。ポールトーマスアンダーソンの「マグノリア」に匹敵するほどの、全てが救済される大団円。本当に見事だった。この作品に出会えたことを、心から感謝する。

 

第8巻 「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川花楓

思春期症候群

牧之原翔子を巡る12月が過ぎ、咲太は高校2年生の3学期を迎えていた。麻衣と共に自分の進路を考え始める。そんな中、咲太の妹である梓川”花楓”は、咲太と同じ峰ヶ原高校への進学を望む。咲太たちは人と接するのに慣れていない花楓を心配し、通信制高校という進路も提示する。しかし、花楓は峰ヶ原高校の受験の途中で体調を崩してしまう。それでも尚花楓は峰ヶ原高校に拘る。何故ならば、自分がいないときに頑張っていた”かえで”の願いであるからだった。それから、定員割れにより峰ヶ原高校に合格となるも、咲太の話や、のどかと同じスイートバレットのメンバー広川卯月との出会いを咲太にセッティングされたことをきっかけに、通信制の高校に進学することを決める。

正直、読む前は不安のほうが大きかったこの8巻であるが、蓋を開けてみれば如何にも青ブタらしい「未来へのもがき」を巡る物語であった。特に強烈なのは、花楓が保健室で咲太に慟哭する場面であろう。ここへきて、またしても”かえで”の不在が刻々と浮かび上がる。この巻では敢えて思春期症候群と言ったSF的要素はなりを潜め、一人の少女が自分の意志でもって、過去に存在したらしき「もう一人の自分」への感謝と、その遺志を引き継ぐ物語として。そして、それを片時も離さず見守ってきた「観測者」が、ようやくその任を終える、旅立ちを見送る物語として。実に堂々とした人間ドラマを物語っている。シリーズの円熟を感じる巻であった。

 

第9巻 「青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川咲太

思春期症候群 「パラレルワールド

記憶が戻った花楓とともに久しぶりに母親と対面することになった咲太は、かつて麻衣が体験したのと同じような、自分の存在が他者から認識されなくなる思春期症候群にお陥ってしまう。それは、自分自身が母親という存在をいないものとしていたことが原因であった。その時、麻衣そっくりだが小学生くらいの少女が現れる。その少女だけは咲太を認識しており、少女に導かれるうちに、気づくと咲太は違う場所、違う世界にいた。 その世界では咲太、花楓、父、母が4人で横浜に暮らし、花楓のいじめ問題は解決し普通に中学に登校、花楓も母も健康。咲太は峰ヶ原高校にて理央たちと友人のままで、麻衣とも交際しているという、絵に描いたような理想の世界だった。だがこの世界は「居心地がよすぎる」と、咲太は元の世界に戻る決心をする。咲太は再び麻衣そっくりの少女に導かれ、元の世界に戻った。 元の世界では、やはり誰も咲太を認識しなかったが、仕事で山梨県に行っていた麻衣が一日早く帰ってきて、咲太のことを見つけてくれた。麻衣に励まされた咲太は、改めて母と対面に行く。すると母が咲太に気がつき、他の皆にも認識される状態に戻った。 時間は1年後に飛び、咲太はのどかや麻衣と同じ大学に合格する。咲太は、細いフレームの眼鏡をかけた少女、赤城郁美に声を掛けられる。彼女は、咲太とは同じ中学の同級生であった…

所謂「並行世界物」という、これまたSF界における定番ジャンルを扱った巻である。”自分の存在がなかったことになっている世界に迷い込む”という点を取り出せば、米澤穂信の「ボトルネック」がまず思い浮かぶし、フランクキャプラの「素晴らしき哉、人生!」も当てはまる。また、全体のプロットからし谷川流の「涼宮ハルヒの消失」にも多大な影響を受けていることは明白であろう。この巻に於いて、咲太の胸には白い線のようなものがあることが描写される。これはわかりやすいへその緒のイメージであり、この巻のテーマが母体回帰と、桜島麻衣という「世界」そのものが内包する母性への回帰ということのメタファーである。故に第1巻の展開がまたしても反復され、この巻で咲太の高校生活は終わりを迎える。次巻からは大学生編が始まる。

 

第10巻「青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない」

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メインキャラクター 広川卯月

思春期症候群「精神の変容」

大学に通い始めて半年。咲太は泣きボクロを持つ女性、美東美織と出会ったり、相変わらず麻衣とは交際を続けたり、理央や朋絵、のどかといった友人たちと思春期症候群とは無縁の平和な日々を過ごしていた。ある日、同じ大学に通うアイドルグループ、スイートパレットのセンターであり、花楓の一件で知り合った少女、広川卯月の様子が変わった。いつもマイペースで天然、テンションが高いことで知られる彼女が、突如「空気を読んで」周囲に自分を合わせるようになった。違和感を覚える咲太やのどかをよそに、他の学生は彼女の変化に気がつかない。同時に「空気を読む」ようになった卯月は「私も、みんなに笑われてたんだ」と、空気の読めない自分が周囲からどのように見られていたかに気がつく。 ネットで話題のバーチャルシンガー、霧島透子の曲をカバーしたワイヤレスイヤホンのCMに卯月が出演していることも話題になり、それを機に卯月のソロデビューやスイートバレットからの卒業が囁かれるようになる。 卯月のことを話しつつのどかと一緒に大学に向かう途中、大学から離れていこうとする電車に乗る虚ろな表情の卯月を見かけた咲太は、咄嗟のことに追いつけないのどかを置いて、三崎口まで卯月を追いかけついて行く。咲太と卯月は三浦半島を散策し、卯月は「武道館を目指すこと」が難しいと感じるようになった胸中を吐露する。 その週末麻衣と共に、お台場で行われたスイートバレットのライブを見に訪れた咲太だったが、ライブの最中、突然卯月の声が出なくなってしまう。他のメンバーにフォローされ、かろうじてその日のライブを乗り切った皆だったが、ライブは翌日にも控えていた。八景島で行われた野外ライブに、卯月抜きの4人で行われることになったスイートバレットのライブをひとり見に訪れた咲太は、観客の中に卯月を発見。彼女はもう声が出せるようになっていることを見抜いて話しかける。武道館を目指して楽天的に皆を引っ張っていた卯月だったが、そんな自分の中に、報われない努力をするスイートバレットのメンバーを嘲る心があったことに気づいて罪悪感を抱き、ステージに上がることを躊躇する。だが、降雨と機材トラブルに見舞われながらも舞台に立つスイートバレットのメンバーを見てステージへと上がった。卯月はステージにて、ソロデビューすることと同時に、スイートバレットも卒業せず武道館を目指すことを宣言した。 ライブの翌日、卯月は、咲太と同じ統計科学学部に進学した目的を、「自分と異なる他者を理解することによって自分に向き合う」ためであることを告げ、大学を退学し、作太に別れを告げる。咲太は卯月を「卒業おめでとう」と送り出す。その直後咲太は、サンタクロースに扮しているが、咲太以外の誰にも認識されていない女性に話しかけられる。彼女は自分を霧島透子と名乗った…

この第10巻が今までの巻に増して引用やオマージュが多い巻であったことに、僕は読んでいる最中狂喜乱舞してしまった。まず今回の思春期症候群は超絶ライトにした「アルジャーノンに花束を」や、デヴィッドクローネンバーグ作品的だといえる。自分の中の精神の変容によって、他者との軋轢が生まれていく物語。そこから実に青ブタらしい「モラトリアムの時期に起こる自己と他者との間に生じるコミュニケーションに対するジレンマをSF的ディテールに象徴させる」という展開が待っている。今回メインとなるのは広川卯月という「わたし」と「みんな」の世界認識の相克であるが、自己のアイデンティティーが他人に認められないという恐怖と、それに伴う諦めは、非常に普遍的な若者の悩みであり、言ってしまえばベタなテーマだ。この巻の最初に、劇中に登場する謎のバーチャルシンガー 霧島透子の歌う歌の歌詞が引用されるが、それがそのまま今回の物語のテーマそのものを言ってしまっている。

どこからどこまでが僕なんだ

ねえ、教えてよ

誰かの声、耳の奥に響いて

境界線は溶けて消えた

ひとつに混ざったみんなに僕はなる

いけないことなの、ねえ

 

霧島透子「Social World」より

特に重要なのは「ひとつに混ざったみんなに僕はなる」という部分。空気を読むことによって個人が謀殺されるという今回の思春期症候群の説明であり、伊藤計劃の「ハーモニー」が、思い起こされることばなのだ。「ハーモニー」は、個人の意識が消失することによって理想郷を作ろうとする少女の物語であった。確実に影響を受けているはずである。

<null> さよなら、わたし。

さよなら、たましい。

もう二度と会うことはないでしょう。</null>

 

伊藤計劃「ハーモニー」より

また、今回の物語の中で、もう一つ強烈なオマージュをしている作品がある。それは、イングマールベルイマンが1966年に撮った映画「仮面 ペルソナ」である。

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この映画は、失語症の女優と彼女の世話をする看護士が、海辺の別荘で療養生活を送る過程で、互いの精神が混ざり合っていく。という物語だ。もっと踏み込んだことを言えば、他人を演じることに憑りつかれ、家庭をないがしろにしている女優(=監督のベルイマン自身及び自分の体験を切り張りして映画を作るしかない映画製作者)と、彼女の横に寄り添い、彼女に自分を演じられてしまう看護士(映画製作者の異常な苦しみを伴う体験が刻印された”映画”を目撃し、自己の人生に投影する観客そのもの)の相克を描いた物語である。そして、この「青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない」に於いて、広川卯月は失語症になり、霧島透子の歌う曲をカバーする=彼女を”演じる”ことによって思春期症候群(精神の変容=モラトリアムの終わり)を迎え、「みんな」という”他者”の「空気を読み」、それらと”同化”しそうになる。この展開の一致が偶然だといえるだろうか。僕が前述した「ハツコイ少女の夢を見ない」での非常に周到な「時をかける少女」オマージュの前科もある鴨志田一氏なので、おそらく意図したものだと思われる。彼女が最終的にする決断…「空気の読めない」”わたし”になる。「みんな」と違う”わたし”に改めて生まれ変わるという、感動的なイニシエーションの物語としても、この巻は新章開幕にふさわしい王道のストーリーテリングを見せてくれた。また、咲太たちの統計科学学部への進学理由も、セカイ系的な怪異を経験した人間ならではの相対的視点を示していて、このシリーズ特有のセカイ系へのある種シニカルとさえ言える距離感を表しているのも、大変重要であり、見逃してはいけないディテールだと感じた。次巻へのクリフハンガーが毎回上手いのがこのシリーズであるが、次回以降、さらなるSF的どんでん返しが待ち受けている予感がする。早く第11巻が読みたいものだ。

 

補論 アニメ版のお話と言う名の「the peggies」のお話

この「青春ブタ野郎シリーズ」は、2018年10月からアニメが放送されている。アニメ版は非常に頑張ってはいる。特に声優陣はどれも非常にハマっていると思う。しかし、やはり原作の情報量の多さは完璧には再現しきれていないという印象なのは否めない。しかし、このアニメの制作陣は、この原作が持つサンプリング感覚と言うものを分かっている。そう感じるのは、アニメ版の主題歌に「the peggies」を起用したことだ。the peggiesとは、3ピースのガールズバンドである。非常にポップな曲調が素晴らしく、僕もファンなのだが、彼女たちもまた、非常にサンプリングとオリジナリティのバランス感覚が見事であると思う。もっと俗っぽく言えば、全体に漂う「チャットモンチー感」と彼女たち独自のセンスの折衷が良くまとまっているのだ。例として、彼女たちの「ボーイミーツガール」という曲の1番の歌詞を引用する

 

退屈な毎日に急かされるように
僕は君に出会って恋をした
「ボーイミーツガール」
弾け飛んだ檸檬のような爆弾を
抱えた僕は出来損ないのヒーロー

窮屈な毎日に殺されぬようにと
僕は君に向かって叫び続けた
「アイラブユー」
このままさ何処かへ行ってしまおうかって
掴んだ腕まだ引っ張れずにいる

透き通った毒を
吸い込んで身体中を駆け巡るみたいな衝動、僕の中を走れ!

歌いたくもないラブソング歌ってまで君にこの想いを伝えようとしてる
恋はいつだってナイフになって
僕の心を切り刻むだけ切り刻んで過ぎ去って行くんだ、だから
ハートは真っ赤に染まっていく

 

 僕が指摘したいポイントは2つ。1つ目は「檸檬のような爆弾を」という歌詞。これはおそらく梶井基次郎の「檸檬」という小説から持ってきたのではないか。2つ目はサビの「歌いたくもないラブソング歌ってまで君にこの想いを伝えようとしてる」という部分。つまり、ラブソングというものはすでに”歌いたくないもの”になっていて、それを歌ってまで想いを伝えるという事だが、ここで、既存のラブソングの相対化と、ラブソングと言うものの在り方を再定義しているのだ。つまり、これらの要素は僕が今まで散々書いてきた「青ブタ」というシリーズが行ってきた「オマージュの果てのセカイ系の相対化と再定義」をこの楽曲の時点で果たしているということである。これほどまでに青ブタの主題歌にうってつけな人材はいないだろう。そこで、彼女たちが歌っているテレビアニメのOP「君のせい」だが、これが見事なまでに桜島麻衣と言う人間が、梓川咲太にどういう想いを抱いているのか。と言うことをこれ以上なく説明する曲なのだ。

 

 

 

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
君のせいだよ

少し伸びた前髪に隠れてる君の目
ちょっとどこ見てんの?こっちに来て!
君が私を夢中にさせるのに難しい事は一つもない

夕方の駅のホーム 波の音
黙る私を見透かしたように
そんな風に笑わないで

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
こんなはずじゃないのに
君のせい 君のせい 君のせいで私
誰かを嫌いになるの?
こんな夜は胸騒ぎしかしないよ
ハートのマシンガン構えて
余裕ぶっこいてる君に狙い撃ちするのさ

今も少し痛む傷 隠してる
制服脱いだって見えやしないほんとのこころ
二人並んで歩いても微妙すぎる距離感
もっと近付いてよ

最低な言葉言ってみたりした
カワイソウな女の子ってやつに
ならないための予防線

君のせい 君のせい 君のせいで私
忘れられない事ばっか
増えていって困るなぁ
君のせい 君のせい 君のせいで今ね
私は綺麗になるの

君じゃなきゃ嫌だって言いたい 今すぐ
ひとりきりの夜とずっと ここで待っていたんだよ

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
こんなはずじゃないのに
君のせい 君のせい 君のせいで私
誰かを嫌いになるの?
こんな夜は胸騒ぎしかしないよ
ハートのマシンガン構えて
余裕ぶっこいてる君に狙い撃ちするのさ

 

また、シングルだとこの曲の次に入っている「最終バスと砂時計」という曲がある。この曲こそ青ブタファン必聴の曲である。7巻における咲太と麻衣の関係性を「二人で幸せになるわよ」という麻衣の言葉を体現するように歌ってくれる。僕は7巻を読んだ後に改めて聞いて、号泣してしまった。

 

 

 

最終バス 走ってゆく いつもの道

いつもと同じ場所で待っててね
あなたの瞳に映るわたしを見てた
優しくいたくて 強くありたくて
 
倒れた砂時計はそのままにしとこうよ
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
描いた未来と違ったって良い
“ふたりなら 大丈夫さ!”
笑い飛ばす勇気 あなたが教えてくれた
出会った日から変わり続ける
わたしの心はあなたを吸い込んで
こうして二人は一つになるのよベイベー
 
最終バス 走ってゆく あなたのもとへ
飲みかけのコーヒー 少し冷えてきたな
 
倒れた砂時計はそのままにしとこうよ
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
うまく伝えたい いつだって
でも不器用でもどかしくて
聞いてほしい話がたくさんあるの 驚かないで
少しずつ近づいてくこの距離
絡まったまま カラフルな思いたち
ぜんぶ優しさに包んで渡すよベイベー
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
あなたへの愛はわたしの力
止めた時間動き出すよ
悲しみに暮れて迷ったって忘れないわ
雨降りならひとつ傘をさして
空が晴れるのを待とう
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
あなたに会いたい 早く会いたい
でこぼこ道をゆくよ
笑い飛ばす強さ あなたが教えてくれた
見つめるたびに変わり続ける
あなたの表情に わたしは吸い込まれてく
こうして二人は一つになるのよベイベー

 

 2019年には、6巻と7巻を映像化した劇場用アニメとして「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」が公開する。これはおそらくかなわぬ願望だが、劇場版でこの「最終バスと砂時計」が掛かってほしい。そうしたら、僕はまたしても号泣する自信がある。劇場版も素晴らしいクオリティを期待する。

 

だが、結局映画版はあまり褒めるに値しない出来であったと思っている。作画も劇場版ならではの特別なものでなく、「ゆめみる少女」のパートが前座にしかなっていないため情緒がない。さらに、「心臓移植をしたら性格がドナーに似る」という咲太と理央のやりとりがカットされているため、僕が前述した「世界」と「セカイ」の象徴性のニュアンスが完全に消えてしまっていた。これはいただけない。もちろん、「最終バスと砂時計」も流れなかった。だが、唯一良かったのは、牧之原さんによる過去改編の際、咲太のこれまで体験してきた思春期症候群にまつわる少女たちとの関わり合いが、走馬灯のように駆け抜けていく演出だ。本編の総括としても、新世界創造のロジックの説明としても大変わかりやすく、ここだけは非常に感動的であった。

 

結論 素晴らしい創作物とは何か?

ここまで長ったらしく文章を書いてきましたが、それもこれもすべてこの青ブタというシリーズが、僕の、映画 アニメ 漫画 小説 ゲーム すべてをひっくるめた中でも、人生ベスト10には必ず入るシリーズになってしまったからです。このシリーズを読んで、僕が求める創作物の姿が改めてわかりました。平たく言えば「他人事でない物語」もっと詳しく言えば「”人生”が刻印された物語」です。この青ブタというシリーズには、梓川咲太という青年が経験する、人生の楽しさ 苦しさ 悲しさが溢れています。そしてそれは、読み手である我々の人生にも共通することです。当たり前のこと言っているように聞こえますが、今の日本の創作物でこれが出来ている作品がどれほどあるでしょうか。この作品は当たり前のように非常に高尚なことをやってのけています。こういう作品には、一生で何本出会えるのでしょうか。青ブタというシリーズは、その貴重な経験を味あわせてくれるシリーズであると、胸を張って言えます。僕も咲太くんのような「優しさ」をもって生きていけるかはわかりません。ですが、彼らは確かに”生きて”います。ならば、僕も彼らのような「夢を見る」ことにしようと思います。

これでこの文章を終わります。ここまで読んでくれた方 ありがとうございます。