それでも映画は廻っている

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サブカルDA話シリーズvol2 最近のエンタメ作品に感じる事と、それを忖度するための作劇論

 

はじめに

今回の記事は、筆者の個人的思想と趣味にのみ基づいて書かれました。読んでいて不愉快になるようでしたらブラウザバックしてください。

この記事のシリーズ「サブカルDA話シリーズ」の前作はこちらからどうぞ

2018年3月28日 「宇宙よりも遠い場所」についての記述を追加。

序章 エンタメ作品を観ていて感じる事

筆者は、今でこそ映画をメインに摂取するタイプのオタクであるが、3.4年前にさかのぼれば、深夜アニメしか世界を知らないオタクであった。なぜ筆者が深夜アニメを見るのをやめたかと言えば、俗に言う「美少女回転寿司」のようなキモオタに媚びたアニメしか市場に現れなくなってきたからだ。そして、更に時代が進むと、ラノベ原作アニメ それも「異世界転生もの」とされるジャンルの作品が市場を占拠した。こうした状況下は、エクスプロイテーション的な作品の消費を加速させたと筆者は感じる。つまり、一つの作品を消化するのが乱雑になってきていると感じるのだ。こうした作品たちを見ているうちに、筆者の中で疑問が生じた。今までの人生で楽しめてきた深夜アニメと、新しく台頭してきた深夜アニメ。そして映画は、何が違って、どこまでが許せるのだろうか。さて、ここからが本題となる。まずは深夜アニメや漫画の作劇について考える。

第1章 真実と虚構の配置

大きく分けて、深夜アニメの作劇及びキャラクターの配置については、以下のように分けられる。

① 実在感のある舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現実の社会、ないしはそれを想起させる舞台に、フィクションでしかなしえない設定を持ちえたキャラクターを配置する手法。キャラクターへの感情移入ではなく「描写」で物語を転がすタイプであるといえる。基本的に、日常系アニメとされている作品の半数はこのタイプだ。この手法の長所として、嘘くさいキャラクターが存在することによるノイズがなくなるという事が挙げられる。キャラクターの実在感は、表現物において最重要視されるべき概念である。本来ならノイズが生じるような現実感のないキャラクターを、外部の舞台設定でコーティングすることによって、作品内リアリティラインの担保へとつながるし、なによりストレスフリーになり、日常系アニメ本来の魅力がより際立つのである。具体例を挙げると、ここ最近で観たアニメの中で一番例に挙げやすいので使わせてもらうが、「三ツ星カラーズ」はまさにこの手法のお手本のような日常系である。f:id:slyuroder:20180313163509p:plain

 東京・上野のとある公園の草むらに、結衣さっちゃん琴葉の小学生女子3名から成る「カラーズ」という(自称)秘密組織のアジトがあった。カラーズの3人は知り合いの商店街の店主や警官、高校生たちと交流しながら、上野の平和を守るために、日夜(ただし夜は家に帰っている)行動していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E6%98%9F%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA

 あらすじを見ればわかると思うが、上野という実際に存在する町を舞台にして繰り広げられるのは、現実には絶対にいないであろう、女子小学生3人のアンサンブル。しかし、観ていてストレスがないのは、上野という街を舞台にしたことによるリアリティラインの設定が地盤を固めることによって、アニメ的なウソを受諾しやすい環境へ視聴者を導いているからだと思う。一つのウソを周りの真実が補強しているのだ。それによって、俗にいうアド街的な面白さを引き出す事にも繋がっている。こうした地固めを行っているかいないかで作品のクオリティには大きな差が出ると感じる。

② フィクショナルな舞台設定に、実在感のあるキャラクター

この手法は、主にSF等現実離れした設定で話を進めるタイプの作品に適応される場合が多い。具体的な例を挙げると、「攻殻機動隊」等の作品が挙げられる。前者とは逆に、キャラクターへの感情移入で物語を転がすため、脚本の完成度がより重要になる手法ともいえるだろう。その意味で、ここ最近の中で最も脚本の完成度が高いと感じたアニメは「宇宙よりも遠い場所」だ。

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そこは、宇宙よりも遠い場所──。

 何かを始めたいと思いながら、中々一歩を踏み出すことのできないまま高校2年生になってしまった少女・キマリこと玉木マリ(たまき マリ)は、とあることをきっかけに南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ)と出会う。高校生が南極になんて行けるわけがないと言われても、絶対にあきらめようとしない報瀬の姿に心を動かされたキマリは、報瀬と共に南極を目指すことを誓うのだが……。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E9%81%A0%E3%81%84%E5%A0%B4%E6%89%80

この作品の一番の美点は、凄まじい実在感を誇るキャラクター造形であると思う。まず偉いのは、主人公である玉木マリのキャラクター造形であろう。彼女がこの作品のテーマ的な意味での体現者だ。つまり、若者とは「ここではない何処か」への憧れこそが行動の原動力である ということだ。それを最終的には、旅=人生という形で修練させていった脚本は秀逸である。このキャラクターを成立させた時点でこのアニメは「勝ち」なのだ。物語的な推進力を担保するのは小淵沢報瀬だ。間違いなく彼女がこの物語の中心である。特に彼女のエモーションと物語の盛り上がりがシンクロした12話のメールの演出は非常に見事であったと思う。そして、他に南極行に同行する2人のキャラクター三宅日向と白石結月にも共通することだが、この4人は皆、他の人間には抱えている葛藤が理解されていない孤独な存在である。そんな4人が南極到達と言う点で交わり、個々人の抱えるものが解放されていく。「スタンドバイミー」などに代表されるように脚本として非常に王道かつ、エモーションが伝わりやすい構造だ。だが、この作品は「夢追い人への賛辞」だけでは終わらない。きちんと玉木マリの友人である高橋めぐみのエピソードを通じて、夢を追う事とは、他の何かを犠牲にしなければならないのだという呪い的な側面まで示してもいる。デイミアンチャゼルの「セッション」や「ラ・ラ・ランド」も連想させる。だが、この作品が伝えたいことは、その側面ではない。何かをやり続ければ必ず報われる時が来る。他の奴など気にするな。ということである。どちらかと言えば、「ショーシャンクの空に」的なアプローチと言える。その側面が最も凝縮されたのはやはり9話の「ざまあみろ」である。あの場面のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。そしてそのテーマは13話のラストでの高橋めぐみの行動によって、誰かが夢に向かって進む姿は、他の誰かに波及していく。という領域まで到達する。ここでも涙が出てしまった。他にお気に入りなのは、白石結月関連のエピソードだ。彼女の「友達が欲しい」という悩みと、経験したことがないからこそ、つい友情と言うものを外部化してしまう彼女の行動には非常に胸を撃たれる。だが、そんな彼女に応えるほかの3人の行動にも、また泣かされてしまう。3話のラストなどはまさに自分のツボを押さえた展開であった。このように、殆ど全話に泣けるポイントが用意されているのも魅力の一つであろう。それも決して押しつけがましいものではない。まとめると、今後ここまでのクオリティの作品が出るのか疑問が残る位の傑作である。未見の方はぜひ観てほしい。

③ 実在感のある舞台設定に、実在感のあるキャラクター

闇金ウシジマくん」等現実の社会問題などを描くタイプの作品に使われる手法。というか、この手の作品はこの手法でなければ物語自体が成立しない。そういう意味では、映画的な表現に最も近いといえる。

④ フィクショナルな舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現在の日本のエンタメの主流であり、ジャンプに連載されている漫画のほとんどはこの手法だ。基本的にこの手法は通用する年代の範囲が狭くなりがちだが、たまに物凄い傑作が生まれる場合もある。具体例を出すと「ファイアパンチ」のような作品である。f:id:slyuroder:20180313173507j:plain

はっきりと言わせてもらえば、この作品が漫画史的事件だと捉えられない人間とはお友達にはなりたくない。漫画的にして、映画的。人生と言う与えられた役割を演じるしかない人間達の滑稽さ。運命とは透明なレールの上を歩かされる隷従ではないのか。そして、人はなりたい自分になってしまうのだ。ここまで荒削りでアナーキーで、パワーのある漫画は見たことがない。「映画」というモチーフがコマ割りからシナリオ、メインテーマにまで有機的に絡み合う見事な構成。これこそが芸術なのだと身を持って宣言できる。

ここまでは深夜アニメ、漫画編。基本的にこの2つは敷居は低い。複雑な論考を上記ファイアパンチ等の一部の作品以外はそれほど必要としないからだ。次の映画についてのほうが、敷居は高い。

第2章 「映画的」とはなにか

映画と言うメディアにおいて望ましいのは、説明セリフでなく、映像で説明することである。何故ならば、映画とは3次元の人間が演技をする様子をカメラでとらえているからであり、アニメや漫画とはそもそもの次元、前提条件が違うのだ。第1章で提示した作劇のパターンは、映画においてはよりハイリスクハイリターンになる。しいて言うなら、①は少ない傾向にある。映画と言うメディアではキャラクターの実在感の無さはより深刻な問題点になるからである。③が最もポピュラーであるのは当たり前だが、②と④も多い。しかし、この2つを完璧に達成するのはアニメ、漫画以上に難しい。最高レベルのVFXと、それに負けないくらいの演出力が求められる。古典で言えば、「ブレードランナー」最近で言えば、マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群がそれらの中では最高のクオリティを達成している。そして、それが達成された暁には、映画と言うメディアが克明に映し出すリアリティの恩恵に預かることになる。これこそが、ハイリスクハイリターンと言った由来だ。いずれにしても、製作者の努力なしでは達成しきれない。また、観客側のリテラシーも問われる。②の作品の特に顕著だが、SF ホラーというジャンルの表面だけを見て判断してはいけない。実際には、それ以上の普遍的なメッセージを伝えたい場合がほとんどである。具体例を挙げれば「トゥモローワールド」や「イットフォローズ」などがあるだろう。こういったメッセージを読み解く能力も確実に必要である。説明を求めるだけの受け身な姿勢を取るのはやめたほうがいい。何故なら、作品のレベルも比例して低下するからだ。作り手にバカだと思われたくなければ、自分からの勉強が不可欠である。こうして観客のリテラシーも意識しなければならない。さて、そろそろこの駄文を終わらせようと思う。

まとめ 

ここまでアニメ、漫画、映画の作劇について書いてきたが、全てにおいて共通するのは、バランス感覚を間違えると終わりなことだ。これが原因で駄作になった作品は数知れない。「ご注文はうさぎですか?」「ラブライブ!」「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」「ダーリンインザフランキス」「トランスフォーマー ロストエイジ」「幸せのちから」などなど、挙げればきりが無いほどに有象無象がひしめき合っている。しかし、逆に言えば、それらの作品の屍を超えて、傑作や良作は生み出されてもいるのである。何が良くて、何がダメなのか。その取捨選択を行うのは我々視聴者であり観客側である。しっかりと自分の中で基準を理論化し、そのものさしに当てはめる。一見当たり前で単純なことだが、それが一番大事だと思う。その延長線上として感想をアウトプットするのも重要である。そうすることで、より自分の思考を確固たるものとして、アイデンティティの糧にできる。そういったことをより多くの人間が実践すれば幸いである。今回の駄文はこれにて終わります。最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。それでは、また別の機会に。