それでも映画は廻っている

自分の映画 アニメ 特撮などへの考え方を明確にするためのブログです。

「仮面ライダークウガ」と「ダークナイト」の本質は、同じである。

今回は、ふとした会話から生まれた記事です。

以前このような記事を書きましたが、今回もこの記事に近いような内容になると思います。作品を貶す内容である訳ではありませんが、本質的な「やりたい事」がこの二本は共通しています。それでは、本文をどうぞ

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

時代をゼロから始めよう 「仮面ライダークウガ

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98

西暦2000年。長野県山中の九郎ヶ岳で謎の遺跡が発掘されたが、棺の蓋を開けたことで目覚めた謎の存在によって、夏目幸吉教授らの調査団は全滅させられてしまう。捜査に当たった長野県警刑事・一条薫は五代雄介と名乗る冒険家の青年と出会う。雄介はそこで見せてもらった証拠品のベルト状の遺物から、戦士のイメージを感じ取る。

ズ・グムン・バに遭遇した雄介は、咄嗟の判断でベルトを装着して戦士クウガに変身した。そして、人々の笑顔を守るために怪人たちと戦うことを決意する雄介。

以後、クウガと怪人たち=グロンギは「未確認生命体」と呼ばれ、人々に認知されていく。

 

 平成ライダーシリーズ第一作となったこの作品。この作品と聞いて思い出すのはなんでしょうか。既存の作品に比べても、格段に現実に近い警察描写。気合の入ったバイクアクション。主人公五代雄介や周りを取り巻くキャラクターたちの魅力。殺人ゲームを楽しむ古代文明が敵という斬新さ。このあたりでしょうか。ですが、個人的にこの仮面ライダークウガという作品に思う事として、この作品の実態は非常にクラシカルな昭和特撮であると思っています。つまり、「斬新さ」と「センスオブワンダー」は似て非なるものだということです。個人的に、平成ライダー龍騎からが本番だと思っています。何故かと言えば、それまでの仮面ライダーでは絶対になしえなかった重層的かつ社会性を持った物語と、仮面ライダーだからこそ描けるキャラクター性を真の意味で両立できたのはこの作品からであると思っているからです。僕はこういう作品が見たいし、積極的にプッシュしたい。そう思わせるだけの何かが、個人的にはクウガと言う作品には薄かったように思えました。さて、クウガより8年が経った2008年。アメリカで一本の作品が公開されます。それは、今まで軽く扱われてきたアメリカンコミックの実写化と言う枠を超えて、一本の傑作 マスターピースとして、アカデミー賞のルールすら変えうるような作品だったのです。

そのしかめっ面はなんだ? 「ダークナイト

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バットマンが活躍するゴッサムシティでは、それまで町に蔓延っていた犯罪者たちが夜に怯えて暮らしていた。しかし、依然として町から汚職や犯罪が一掃されたわけではない。新任検事のハービーはゴードンやバットマンと共にマフィアの掃討に当たる。追い詰められたマフィアは、狂人のジョーカーにハービーとバットマンの抹殺を依頼する。

 

映画ファンやアメコミファンにはもはや説明不要の作品です。この作品の何が凄いのか。まず、2008年のブロックバスター超大作とは思えないようなアメリカンニューシネマ的なストーリーが挙げられます。人間の善意を信じようと戦うバットマンことブルースウェイン。人間が信じているものを心の底からグラつかせようと誘惑するサタン的な悪役のジョーカー この二人の対決は、「ダーティーハリー」におけるハリーとスコルピオにも通じます。善と悪 警察的な法の執行と自警行為 復讐の是非 といった、非常に複雑な対比によるテーマ性を持ったストーリー性や、劇映画としては初めてIMAXカメラを使用したことによる画面のルックの素晴らしさ。ジョーカー役のヒースレジャーが文字通り命をかけて演じたジョーカーというキャラクターの凄まじさが、この作品を日本以外の国では大ヒットへと導いたのだと思います。前述の仮面ライダークウガとの共通点ですが、どちらの作品も、「ヒーローという存在の現代的な再定義と象徴化」を行っている作品だと感じました。既存のヒーロー物の常識、お約束に縛られない作劇ではありますが、最終的なヒーロー的なる存在の落としどころは、むしろクラシカルなものであると思います。そして、この2本を評するときに、「リアル」という表現が使われることが多いと思いますが、僕は違うと思います。なぜならば、この2つの作品の目的は前述したとおり「象徴化」なのであって「リアル化」ではないのです。そもそもこの表現を使って評している人たちは「リアル」と「リアリズム」をはき違えているのではないのでしょうか。あくまでもフィクション作品に求められているのは現実世界とリンクするようなメタファー 比喩的表現だと思っているので、僕は「リアル」であることが作品に必ずしも良い影響を及ぼすとは考えていません。そのうえで、我々に問題提起を促すようなクウガダークナイトのような作品(前述のとおりクウガはあくまでも踏み台だと考えていますが)が僕は好きなのです。

これで今回の文を終わります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。