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僕の好きな作品の傾向 「死」が物語にもたらす意味

ここ最近、以前より作品を観る機会が増えました。映画もそうですし、アニメやゲームに至るまで、様々なジャンルの作品です。そして、それらの作品のモチーフやテーマは、おのずと似るものです。そこで、何が共通するのかを自分なりにまとめてみたいと思います。

注意 今回名前を挙げる作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

1 「」と「」のモチーフ

やはり僕は「生と死」が好きなようです。死は人間が必ず向き合わなければならない壁であり、到達点でもあります。死は本来は生の添え物ですが、稀に生をも上回る価値を備えることがあると思っています。具体的に作品を挙げれば、ペルソナ3とシュタインズゲートがもっともふさわしいでしょう。

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ペルソナ3は、登場人物それぞれが、死と後悔のバックグラウンドを背負っています。それをそれぞれが吐露しあい、ぶつけ合い、傷つけあいながら前に進んでいく物語と雰囲気は、4以降のポップでオシャレなトーンでは決して出せないであろう物です。特に、伊織順平と荒垣新次郎、そして主人公の3名が最もこの作品を象徴しているといえます。伊織は、よくあるお調子者キャラかと思いきや、リーダーとして指揮を執る同学年の主人公に対して、嫉妬心をあらわにします。しかし、一人の女との出会いが彼を変えます。そして、彼女の犠牲によって彼は生き返ります。そのことによって彼は生と死を同時に背負うことになります。荒垣は、ペルソナの暴走によって天田というキャラクターの母親を死に至らしめてしまったという過去を持っています。そのことに強い責任感を感じている荒垣は、加入を断っていたにも関わらず、天田の加入と同時に仲間に加わります。そして、天田にそのことが発覚した荒垣は、一人天田の復讐心に向き合う覚悟を決めます。しかし、彼は思わぬ乱入者が放った凶弾によって、天田を庇い、死を迎えてしまいます。仲間の中では彼だけが、死亡してしまいます。これは、次の項で説明する「贖罪」のモチーフとも重なります。後々のバージョンでは生存させることも可能ですが、それもファンサービスの延長としての側面が強く、戦前は離脱するので役割は損ねていません。そして主人公ですが、RPG特有の無口主人公という設定を逆手に取った、ラスボスを体内に封印している。という設定の代償として、卒業式の日に死を迎えてしまいます。自らを犠牲にして世界を救った男のそれは、機械生命体のアイギスと、仲間に看取られながらの穏やかな最期でした。死の直前でのアイギスとの会話は、とても素晴らしいものです。生と死というテーマを再び浮き彫りにした後のエンディングテーマ「キミの記憶」が流れだした瞬間、震えるほどの感動を味わうことになります。プレイヤーは彼の視点を通じて体験した1年の思い出を、春の出会いと別れを鮮やかに表現したこの曲と共に思い出すのです。この作品のキーワードは「memento mori」意味は、「死を想え」あるいは、「汝の死を忘れるな」まさしくこの作品を見事に表したキーワードです。次は、シュタインズゲートについてですが、以前書いた記事でも取り上げたので、そちらも読んでいただけたら幸いです。

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この作品は、基本的に死によって物語が動き出します。牧瀬紅莉栖の死によって話が始まり、椎名まゆりの死によってこの物語の残酷な本性が現れはじめ、岡部倫太郎の地獄巡りが始まります。これも「贖罪」のモチーフと言えます。その先に待っているのが、最高の生だからこそ、感動も増します。歯車がイメージとして多用されているのも円のような物語の構造と、世界の歯車が狂っていく壮大な物語ということも表現していると思います。今挙げた二作に共通するのは、どちらもセカイ系の形を取っていることです。セカイ系とは、一つの街で、主人公とその周辺の人々だけで人間関係は完結し、あくまで、その他の人々は単なる書割としか描写されず、それでいて世界全体の危機を救ってみせる。という物語のことを言います。21世紀と言う、インターネットと言う個人レベルの、内向きの世界の台頭も影響していると思います。

さて、次の項に移ります

2 「贖罪」のモチーフ

僕の映画オールタイムベスト(http://coco.to/best/slyuroder)を見てください。一部の作品を除き、殆どの作品には、主人公が、今までの罪を反省しようとする場面が含まれています。そんなことを言えば、大体の物語はそうじゃないと思う方もいらっしゃると思いますが、ただの御伽噺ではなく、今を生きる我々には、この物語は間違いなく必要です。すべての人々の胸を打つ物語構造であることは確かだと思っています。例えば、ファイトクラブの主人公 僕(I)は自己に内包するエゴイズムの象徴であるタイラーダーデンと最後に対決します。そして、自分を撃つことにより自分に打ち勝ちます。恋人のマーラに「これからはすべて良くなる」と話し、崩れ去るビルを眺めながら自らもビルの崩壊に巻き込まれます。パルプフィクションの主要登場人物の一人、ジュールスも、最初は相棒のヴィンセントと共に、殺しに従事していましたが、彼自身が奇跡を目撃することによって、自らの決め文句としているエゼキエル書第25章17節の言葉の意味を、改めて自らに問い直します。その結果、彼は殺し屋の家業から足を洗うことになります。僕が、ペルソナ2罪 罰それも特に罰が好きなのは、主人公である周防達也が前作で犯した罪を、周りの大人たちと協力して尻拭いする話であるからです。戦いが終わったのちに彼は、元の世界へと旅立ちますが、孤独を抱えた少年の辿る道として、非常にもの悲しくも希望を感じさせます。真の贖罪とは、「死ぬことも許されぬ煉獄への暗夜行路」であることは否定しません。ですが、罪すら購えぬ人間は何をもってして救われるのでしょうか?僕はこれこそが物語と言うものが持つ最大のパワーだと思うのですが、「悪しき魂に裁きを与え、救われぬ魂に救いを与えることができる」のはフィクションだけです。現実の倫理観では、正しさはなく、資本主義に裏打ちされた利己主義のみがそこにあります。道徳なぞ意味をなしていません。

ですが、物語は違います。現実を象徴しながらも、我々の理想がそこにあります。僕は損得を超えた利他的な行動こそが真に英雄的な人間の行動だと思っています。誰かを守るため、自らの思いを誰かに託し次世代への糧にするために、復讐の輪廻を断ち切るために、罪を負った自分が取れる唯一の罪滅ぼしとして、死を選ぶことは、決して無駄ではないと思います。それこそが、その人間のあがきであり、生きていた証なのですから。

まとめ

本来自己犠牲は、非常に宗教的なモチーフです。ともすれば殉教として、死を肯定しているかのように聞こえるかもしれません。しかし、誰かの犠牲の上に積み上げられた世界を生きている我々にとって、いつまでも、個人の死は、誰かの人生の重要なファクターであり続けるでしょう。人は、案外簡単に考えが変わる生き物です。しかし、悲しみと言う感情は人間にしか備わっていない感情です。悲しみを知る人間だけが、誰かに同じ悲しみを味わいさせまいと、優しさを持ちます。その優しさを生み出す一つのきっかけとしても、魂を開放する役割としても、死は、終わりの始まりとして、我々の前に立ちはだかり続けるでしょう。そのことを的確に切り取り、表現できるのも、やはり物語しかないのです。だからこそ僕らは虚構に魅了されるのではないでしょうか?

以上でこの文を終わります。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。