それでも映画は廻っている

自分の映画 アニメ 特撮などへの考え方を明確にするためのブログです。

僕の好きな作品の傾向 「死」が物語にもたらす意味

ここ最近、以前より作品を観る機会が増えました。映画もそうですし、アニメやゲームに至るまで、様々なジャンルの作品です。そして、それらの作品のモチーフやテーマは、おのずと似るものです。そこで、何が共通するのかを自分なりにまとめてみたいと思います。

注意 今回名前を挙げる作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

1 「」と「」のモチーフ

やはり僕は「生と死」が好きなようです。死は人間が必ず向き合わなければならない壁であり、到達点でもあります。死は本来は生の添え物ですが、稀に生をも上回る価値を備えることがあると思っています。具体的に作品を挙げれば、ペルソナ3とシュタインズゲートがもっともふさわしいでしょう。

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ペルソナ3は、登場人物それぞれが、死と後悔のバックグラウンドを背負っています。それをそれぞれが吐露しあい、ぶつけ合い、傷つけあいながら前に進んでいく物語と雰囲気は、4以降のポップでオシャレなトーンでは決して出せないであろう物です。特に、伊織順平と荒垣新次郎、そして主人公の3名が最もこの作品を象徴しているといえます。伊織は、よくあるお調子者キャラかと思いきや、リーダーとして指揮を執る同学年の主人公に対して、嫉妬心をあらわにします。しかし、一人の女との出会いが彼を変えます。そして、彼女の犠牲によって彼は生き返ります。そのことによって彼は生と死を同時に背負うことになります。荒垣は、ペルソナの暴走によって天田というキャラクターの母親を死に至らしめてしまったという過去を持っています。そのことに強い責任感を感じている荒垣は、加入を断っていたにも関わらず、天田の加入と同時に仲間に加わります。そして、天田にそのことが発覚した荒垣は、一人天田の復讐心に向き合う覚悟を決めます。しかし、彼は思わぬ乱入者が放った凶弾によって、天田を庇い、死を迎えてしまいます。仲間の中では彼だけが、死亡してしまいます。これは、次の項で説明する「贖罪」のモチーフとも重なります。後々のバージョンでは生存させることも可能ですが、それもファンサービスの延長としての側面が強く、戦前は離脱するので役割は損ねていません。そして主人公ですが、RPG特有の無口主人公という設定を逆手に取った、ラスボスを体内に封印している。という設定の代償として、卒業式の日に死を迎えてしまいます。自らを犠牲にして世界を救った男のそれは、機械生命体のアイギスと、仲間に看取られながらの穏やかな最期でした。死の直前でのアイギスとの会話は、とても素晴らしいものです。生と死というテーマを再び浮き彫りにした後のエンディングテーマ「キミの記憶」が流れだした瞬間、震えるほどの感動を味わうことになります。プレイヤーは彼の視点を通じて体験した1年の思い出を、春の出会いと別れを鮮やかに表現したこの曲と共に思い出すのです。この作品のキーワードは「memento mori」意味は、「死を想え」あるいは、「汝の死を忘れるな」まさしくこの作品を見事に表したキーワードです。次は、シュタインズゲートについてですが、以前書いた記事でも取り上げたので、そちらも読んでいただけたら幸いです。

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この作品は、基本的に死によって物語が動き出します。牧瀬紅莉栖の死によって話が始まり、椎名まゆりの死によってこの物語の残酷な本性が現れはじめ、岡部倫太郎の地獄巡りが始まります。これも「贖罪」のモチーフと言えます。その先に待っているのが、最高の生だからこそ、感動も増します。歯車がイメージとして多用されているのも円のような物語の構造と、世界の歯車が狂っていく壮大な物語ということも表現していると思います。今挙げた二作に共通するのは、どちらもセカイ系の形を取っていることです。セカイ系とは、一つの街で、主人公とその周辺の人々だけで人間関係は完結し、あくまで、その他の人々は単なる書割としか描写されず、それでいて世界全体の危機を救ってみせる。という物語のことを言います。21世紀と言う、インターネットと言う個人レベルの、内向きの世界の台頭も影響していると思います。

さて、次の項に移ります

2 「贖罪」のモチーフ

僕の映画オールタイムベスト(http://coco.to/best/slyuroder)を見てください。一部の作品を除き、殆どの作品には、主人公が、今までの罪を反省しようとする場面が含まれています。そんなことを言えば、大体の物語はそうじゃないと思う方もいらっしゃると思いますが、ただの御伽噺ではなく、今を生きる我々には、この物語は間違いなく必要です。すべての人々の胸を打つ物語構造であることは確かだと思っています。例えば、ファイトクラブの主人公 僕(I)は自己に内包するエゴイズムの象徴であるタイラーダーデンと最後に対決します。そして、自分を撃つことにより自分に打ち勝ちます。恋人のマーラに「これからはすべて良くなる」と話し、崩れ去るビルを眺めながら自らもビルの崩壊に巻き込まれます。パルプフィクションの主要登場人物の一人、ジュールスも、最初は相棒のヴィンセントと共に、殺しに従事していましたが、彼自身が奇跡を目撃することによって、自らの決め文句としているエゼキエル書第25章17節の言葉の意味を、改めて自らに問い直します。その結果、彼は殺し屋の家業から足を洗うことになります。僕が、ペルソナ2罪 罰それも特に罰が好きなのは、主人公である周防達也が前作で犯した罪を、周りの大人たちと協力して尻拭いする話であるからです。戦いが終わったのちに彼は、元の世界へと旅立ちますが、孤独を抱えた少年の辿る道として、非常にもの悲しくも希望を感じさせます。真の贖罪とは、「死ぬことも許されぬ煉獄への暗夜行路」であることは否定しません。ですが、罪すら購えぬ人間は何をもってして救われるのでしょうか?僕はこれこそが物語と言うものが持つ最大のパワーだと思うのですが、「悪しき魂に裁きを与え、救われぬ魂に救いを与えることができる」のはフィクションだけです。現実の倫理観では、正しさはなく、資本主義に裏打ちされた利己主義のみがそこにあります。道徳なぞ意味をなしていません。

ですが、物語は違います。現実を象徴しながらも、我々の理想がそこにあります。僕は損得を超えた利他的な行動こそが真に英雄的な人間の行動だと思っています。誰かを守るため、自らの思いを誰かに託し次世代への糧にするために、復讐の輪廻を断ち切るために、罪を負った自分が取れる唯一の罪滅ぼしとして、死を選ぶことは、決して無駄ではないと思います。それこそが、その人間のあがきであり、生きていた証なのですから。

まとめ

本来自己犠牲は、非常に宗教的なモチーフです。ともすれば殉教として、死を肯定しているかのように聞こえるかもしれません。しかし、誰かの犠牲の上に積み上げられた世界を生きている我々にとって、いつまでも、個人の死は、誰かの人生の重要なファクターであり続けるでしょう。人は、案外簡単に考えが変わる生き物です。しかし、悲しみと言う感情は人間にしか備わっていない感情です。悲しみを知る人間だけが、誰かに同じ悲しみを味わいさせまいと、優しさを持ちます。その優しさを生み出す一つのきっかけとしても、魂を開放する役割としても、死は、終わりの始まりとして、我々の前に立ちはだかり続けるでしょう。そのことを的確に切り取り、表現できるのも、やはり物語しかないのです。だからこそ僕らは虚構に魅了されるのではないでしょうか?

以上でこの文を終わります。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

 

「時間」を感じさせる作品たちpart2 「ミッション8ミニッツ」と「未来戦隊タイムレンジャー」

今回は、前回の記事の続きとなります。映画ファンからは、隠れた名作として認知されている作品と、特撮ファンからの評価も高い作品の2作を紹介します。

 

注意 今回の記事には、ネタバレが含まれていますので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

8分の中で変わりゆく人生「ミッション8ミニッツ」

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アメリカ陸軍パイロットのスティーブンス大尉が目を覚ますとAM7:40、シカゴ行き通勤列車の中。しかし周りの光景にも、自分に話しかけてくる同席の女性、クリスティーナにも全く見覚えがない。鏡に映る自分の顔も別人であり、所持していた身分証には教員ショーン・フェントレスと書かれている。そして8分後、列車は大爆発を起こして乗客は全員死亡する。再び目を覚ますと、モニターに映る謎の女性から、先ほどの体験がこの爆破事件の犯人を見つけ出すために、死亡した人間の記憶から作られたシミュレーションであると聞かされる。スティーブンスはいつ終わるかもわからない8分間を繰り返していく・・・

 

なぜこの映画がただのSF映画の域を出た高評価を受けているのか。それは、この映画の後半から紡がれる物語が、非常に哲学的で普遍的な、「意味のある人生とはなんなのか」というところにまで行き着くのだからだと思います。主人公は、この世界は死んだ人間の残像であり、この乗客たちを救うことはできないと告げられても、せめてこの8分間を意味あるものにしようと、最初は苛々としてまともに取り合わなかった乗客たちそれぞれに目を向けていきます。それによって彼はたった8分間で、乗客やクリスティーナ、自分の世界を救うことになります。それによって導き出される新たなる世界。非常に感動的なラストです。監督は「月に囚われた男」で一躍名を上げたダンカンジョーンズ。デヴィッド・ボウイの息子でもある彼ですが、この素晴らしい映画を作り上げた彼の作家性は、間違いなく父親譲りであると思います。同じ時間を繰り返すループ物SFと言うと、この作品によく似た作品は、「恋はデジャ・ヴ」であると思います。こちらも、人生の本質を考えさせられる名作です。どちらもぜひ見てみてください。

新しい時を刻むために「未来戦隊タイムレンジャー

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西暦3000年の未来。時間移動技術が確立され、異星間移動も可能になった未来。不法な歴史修正を監視する組織「時間保護局」に、1000年の圧縮冷凍刑を受けることになっていた大物マフィアのドン・ドルネロが、自分の部下と共に逃亡としたという一報が入る。隊長のリュウヤと新人隊員のユウリ、アヤセ、ドモン、シオンと共に逮捕に向かうが、策略に嵌められ、体調が行方不明のまま囚人を収容したロンダ―刑務所ごと、西暦2000年の日本へとタイムトラベルしてしまう。意気消沈する4人の前に現れたのは、リュウヤにそっくりな現代人の浅見竜也。事態の収拾を図るため、緊急用の強化スーツを身に着けようとする4人だったが、5人でなければ初起動できないという制約がかけられていた。そこで、竜也を半ば成り行きでメンバーに加え、一人目の囚人の冷凍に成功する。ここから、4人の未来人と1人の現代人の物語が幕を開ける・・・

 

この作品は、既に私の周囲で様々な角度から論じられている作品なので、今更論じることもないでしょうが、私が感じたことを書いていきたいと思います。まず感じたのは、4クールの物語としてこれ以上なく完成された脚本の妙です。大きな枠組みと、小さな枠組みの対比。つまり、歴史の流れという、抗いようのない大きな物語と、個人の日々の日常から浮かび上がる小さな、しかしそれでいて確実にドラマティックな物語の対比。この構造は、「この世界の片隅に」を連想しました。特に多くの方がさんざん指摘している通り、タイムブルーことアヤセに代表される「生への渇望」のモチーフがこの作品には内在しています。明日を守ると宣言した竜也や、死を回避しようとする黒幕のリュウヤ隊長など、徹底されていました。スーパー戦隊シリーズならではの、基本は勧善懲悪と言う部分も守りつつ、ここまで心理描写をうまく混ぜ込んだ作品はなかなかお目にかかれないと思います。各キャラクターをみんな好きになれた戦隊は初めてでした。流石、小林靖子と言った所でしょうか。だからこそ、アマゾンズは本当に惜しいと言わざるを得ません。仮にもヒーロー番組で扱うにはあまりにも場違いなテーマでした。まあ、きちんと見れる分のクオリティではあったのは救いでした。その分もっとこうすればよいという惜しさばかりが前面にでていたのは否めません。先駆者兄貴たちの批評もぜひご覧ください。私よりも多くの特撮を見てきている方がこのインターネットという海にはたくさん居ますので、そちらのほうを見ていただいたほうが良い部分もたくさんあります。以上でこの駄文を終わりたいと思います。ここまで読んでくださってありがとうございます。

 

 

「時間」を感じさせる作品たちpart1  「クラウド・アトラス」 「LOOPER」 「メッセージ」

 

今回は、数あるSF映画の中でも、時間、ループが関連する作品を中心に取り上げます。表面上のとっつきずらさとは裏腹に、きちんとテーマを読み解けば、感動できる作品ばかりです。それでは、紹介していきます。

 

注意 今回の記事には、ネタバレが含まれていますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

 

1 時を超え繰り返す魂のループ「クラウド・アトラス

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この映画、非常に説明しにくいです。なぜならば、アメリカ独立時から、文明崩壊後の遠い未来まで、6つの時代の物語を同時に語っていくという物語構造を持っているからです。具体的に言えば、「1849年の南洋、奴隷貿易の契約を終えた弁護士の青年が、帰りの船の中で出会った黒人の密航者との友情」「1931年のイギリス、作曲家を志す青年が、巨匠のもとで修行するうちに、意見の齟齬を起こしながらも、「クラウド・アトラス六重奏」を完成させるまで」「1973年のアメリカ、原発を巡る陰謀によって殺された科学者が遺した報告書を託された女性記者が、亡き父の戦友と共に、殺し屋に立ち向かう。」「2012年のイギリス、編集者の老人が、儲けた金をギャングに恐喝され、兄に助けを求めるが、逆に悪徳老人ホームに入れられてしまい、なんとか脱出を図る」「2144年のソウル、遺伝子操作によって労働力と化している合成人間のうちの一体の少女が、革命家と出会い、世界の実情を知っていく。」「2331年のとある島、文明は崩壊し、人類は村社会へと戻り、女神を崇めながら生活していた。人食い族におびえる村の住民の男は、『昔の人』の技術を持つ一人の女性を、島で最も危険な『悪魔の山』へと案内するまでの物語」と、非常に複雑で、それぞれの話が密度を持った物となっているため、3時間超の大ボリュームとなっています。しかし、この作品はぜひ皆さんに見てもらいたい作品です。この6つの物語、出てくる役者は同じです。それぞれの時代で異なる魂に転生しています。面白いのが、前の時代で悪人だった人物が、後の時代には、善人になっているところです。転生を行う人物の体には、彗星型の痣があるという設定も、なんとなくジョジョの奇妙な冒険を想起させます。黒人であるハル・ベリーが白人になっていたりと、魂に人種はないことを教えてくれるスター役者たちの七変化も魅力です。監督は「マトリックス」のウォシャウスキー姉妹(現在)と「ラン・ローラ・ラン」のトム・ティグヴァの3人です。それぞれが3パートずつ担当していますが、だれがどれを撮ったのかは一目瞭然です。ウォシャウスキー姉妹の姉、ラナさんが仏教に造詣が深いこともあり、このような映画を作れたのだと思います。初見時の胸が震える感動を、ぜひ、皆さんにも味わってほしいです。

 

2 暴力の連鎖を止めるためには「LOOPER」

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2044年カンザス州、未来の犯罪組織の依頼で、送られてくる人間を殺す殺し屋、通称「LOOPER」の主人公のジョー。ある日、依頼で送られてきた人間は、30年後の自分だった。自分を取り逃がしてしまったジョーは、彼を追っていくうちに、彼の標的が、2044年ではまだ幼い子供である未来の犯罪王「レインメーカー」を殺すことであると知る。彼が現れると踏み、ジョーレインメーカーの居所へと向かうが…

 

まずこの作品の特徴としては、何と言っても設定面での斬新さです。30年後の自分と戦うことになるまでの、未来世界の描写として、車、銃が西部劇の時代まで退化したかのようなレトロフューチャー感。これによって、新鮮でありながら、どこか乾いたバイオレンスのにおいを漂わせます。ジョーが30年の間に何が起こったかを見せるシークエンス、田舎の家にやってきたジョーが出会う未亡人の女と、未来の犯罪王。そしてそれまでの展開が結実して導き出される、ジョーの選択。あのラストシーンによって、この映画のタイトルの「LOOPER」が、主人公のことではなく、無限に繰り返される暴力、復讐のループであることがわかるのです。監督のライアン・ジョンソンは「スターウォーズ エピソード8 最後のジェダイ」の監督も務める実力派。観て損はしない一作です。

3 あなたの人生の物語 「メッセージ」

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世界各地に突如飛来した謎の宇宙船。言語学者のルイーズ、物理学者のイアン、アメリカ軍大佐のウェバーらが調査を開始する。学者たちに与えられた任務は、この宇宙船の中にいる宇宙人「ヘプタポッド」の言語を解読すること。人類に示されたメッセージとは何か?

 

この2017年と言う時代。トランプが猛威を振るい、北朝鮮がミサイルを発射し、イスラム国がテロを起こす時代。この映画は、まさしくこのような時代にふさわしい映画です。12個の宇宙船と言うモチーフは、キリストの使徒を想起させますし、この映画で示される未来は、世界が一つになった未来です。対話で、人類は変われるという可能性を示してくれました。この展開は、アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終り」を思い出します。そして、もちろん同氏の「2001年宇宙の旅」も思い出されます。ルイーズを迎えにくる小型宇宙船は、モノリスの役割ですし、白い部屋で進化の核心を知るという点も似ています。ここまでの話は、所詮、大きな世界の話に聞こえるかもしれません。しかし、この話の凄いところは、最も人々に普遍的な「人生」の話を語って見せている点です。ルイーズはヘプタポッドから授かった表意文字によって、過去、現在、未来を同時に認識できるようになります。彼女が見た未来の中には、不治の病で死ぬ娘も含まれています。なぜ彼女は死ぬことがわかっているのに、娘を産んだのか? それは、娘がいなければノンゼロサムゲームのくだりが発生しないという理由もありますが、それよりも、娘を失う悲しみより、娘が生まれたという喜びを取ったのではないでしょうか。思い出すという行為に、時系列はありません。子供の時から、結婚記念日、老年のときまで、バラバラに思い出すはずです。劇中曲も、同じような旋律がループしていたり、家の天井で始まり、天井で終わる構成であったり、まるでヘプタポッドの文字のような円環構造の作品です。彼らに目はなく、前や後ろと言う概念がないことも一因でしょうか。この映画が今公開されて劇場で観られたことを、本当にうれしく思います。

以上でこの文を終わります。ここまでこの文を読んでくれた方、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

映画人の死  「グラン・トリノ」と「ローガン」

今回は、私が大好きな映画2本についての記事です。この2本の共通点として、主演俳優の引退作と言うことが挙げられます。彼らの映画人生が結実した作品ではないかと思います。では、紹介に移ります。

注意 今回の記事にはネタバレが含まれているので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

 

 

1 アメリカ映画の臨界点「グラン・トリノ

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フォードの自動車工を50年勤めあげた元朝鮮戦争の軍人、コワルスキーは、妻を亡くし、日本車が台頭し、東洋人の街となっているデトロイドで隠居生活を送っていた。ある日、ギャングにそそのかされた隣家のモン族の少年タオが愛車の72年型グラン・トリノを狙って忍び込むが、コワルスキーの構えた銃の前に逃げ去る。その時からモン族との交流が始まり、タオを一人前の男にするため、世話をしていく。しかし、ギャングたちはさらなる嫌がらせを加え続け、タオは復讐心に燃える。その時、コワルスキーがタオに示した選択とは・・・

クリント・イーストウッド監督作であり、実質的な主演引退作であるこの作品ですが、それにふさわしい作品です。彼が今まで演じてきたキャラクターたちが走馬灯のように浮かんできます。胸から銃を取り出すしぐさはダーティハリーですし、許されざる者での役も目に浮かびます。もともと彼は西部劇の主演として名を挙げた俳優です。まさしく彼は古き良きアメリカ映画の体現者でした。超然としたキャラクターを常に演じ続けてきた彼ですが、近年では、殺人者として自分を捉えることが増えてきました。いわゆるニューシネマ的アプローチです。許されざる者などは、まさにその典型的な例と言えるでしょう。そのアプローチの集大成と言えるのが本作です。この映画のラストで、イーストウッドが我々に伝えたかったもの。それは、アメリカという国が本来持っていた、自由の精神。それを継承するのは誰か。白人である必要はない。それが異人種であろうと、継承することはできる。そんな暖かくも、力強いメッセージを、イーストウッドは伝えてくれた気がします。

彼が刻んだ最期の爪痕 「ローガン」

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2029年、新たなミュータントが生まれることもなく、ミュータントは絶滅の危機に瀕していた。ローガンこと、ジェームズハウレットはテキサスで運転代行をしながら、メキシコ国境沿いにある放置された精錬所でチャールズエグゼビアの介護を、キャリバンと共に行っていた。ある日、ローガンの素性を知る男、ドナルドピアーズが現れ、人探しの協力を求められる。また、ローガンは元看護士と名乗るガブリエラ・ロペスから、ローラという名の11歳の少女をノースダコタにある「エデン」まで送り届けて欲しいという依頼を受ける。精錬所が襲撃されたローガンは、なし崩し的にその依頼を受け、逃避行を始めることとなる・・・

このブログでは初めての、公開中の作品を扱う記事となりました。もう一度言いますが、ネタバレを含みますので、自己責任で回覧してください。さて、今回のローガンですが、久しぶりに自分のオールタイムベストを更新するレベルで好きな作品となりました。それはなぜかと言えば、一人のヒーローの終りを、ここまで激しく、そして悲しく語りきった作品はないからです。ローガンの人生の終着点を見事に描き切っています。あえて断言します。僕の中のヒーロー映画ナンバー1であると。まずはR15だからできるであろう凄惨な暴力描写。これをなくして本作は語れません。退廃とした世界に宿る乾いたバイオレンスを的確に表現していると思います。それを踏まえて言いたいのは、今回から参戦したローガンのクローンであるローラを演じたダフネ・キーンちゃんは、今年のベストガールであることです。彼女の大立ち回りの凄さはもちろんですが、終盤の演技には、号泣してしまいました。つまり、ローガンの手を黙って握るローラや、最期の時に「パパ」とローガンを呼ぶローラ。墓標をXに倒すシーンで涙を抑えきれなかったのです。日本のエンターテイメントは絶対にできないアプローチで、人生と死について語りきってしまった本作を、僕はこれからも見返し続けるでしょう。最良の役であったウルヴァリン役を見事に締めくくったヒュージャックマンには、本当にお疲れを言いたいです。監督にも、SAMURAIの件は帳消しにします。本当にありがとうございました。

今回の記事は以上です ここまで読んでくれた方 ありがとうございました。

 

 

アイデンティティを確立する作品たち。「8 1/2」と「バードマン」

 

今回は、前回の記事    (アイデンティティーの揺らぎをテーマにした作品たち。「ブレードランナー」 「マトリックス」 「ファイトクラブ」そして「仮面ライダー555」 - This Not a Blog)

の補論となります。映画と言うものは、監督のその時の心情や、影響を受けた作品群を知ったうえで観れば、より感慨を増します。それが如実に出た作品群を紹介します。

注意 今回の記事にはネタバレが含まれているので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

 

1、フェデリコフェリーニ監督の世界「8 1/2

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著名な映画監督のグイドは、新作の構想と療養のため、温泉地へとやってくる。しかし、一向に定まらない映画内容と、周りの出資者に接する苦悩だけが積もっていく。いつしかグイドは、自らの理想の世界へと現実逃避していく…

 

まず、なぜこの映画のタイトルが「8 1/2」なのかということですが、本作がフェリーニ監督の単独作7本目であることと、処女作である「寄席の脚光」で共同監督をしたため、それを合わせたら、本作が、8と半分になるということです。今作の特徴として、ある種メタフィクションのような構造になっていることです。フェデリコフェリーニ自身が、この映画の主人公のように、映画製作に行き詰っていました。そこで、映画を作るのに悩むさまそれ自体を映画化すればよいという発想に至るのです。作中で主人公は、カトリックの神父と、カトリックを否定する左翼系の映画評論家との間で板挟みになります。そこで彼は悟ります。「このわけのわからない状況が、自分らしさだ。」そこで有名なラストシーンへとつながります。今までに出てきた登場人物すべてがパーティに出席し、彼に拍手をしてくれます。これは、まんま「エヴァンゲリオン」TV版の最終回ですし、「エヴァQ」にまでつながります。デヴィッドフィンチャーの「ゲーム」のラストにも同様の展開がありました。なぜ宮崎駿の「風立ちぬ」で庵野秀明を主演に据えたのか、これで明白になりました。まあアレのラストは、カプローニをメフィストテレス、堀越次郎をファウスト博士、里見菜穂子をグレートヒェンに置き換えれば、ファウストであることがわかりますが、同時に「創作者」の物語でもあるわけです。創作者にとっての自己実現は、作品の完成です。なぜなら、自分をさらけ出せるのは、文章を書く 絵を描く 映画を作るといった「表現」であるわけです。この「8 1/2」と言う作品は、すべての創作者に対する応援歌であると思います。機会があれば、ぜひご覧ください。

 

彼はもう一度羽ばたけるのか「バードマン あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡」

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リーガントンプソンは過去にスーパーヒーロー物のブロックバスター超大作「バードマン」に主演した落ち目の俳優である。彼は自分の人生に再起をかけるため、ブロードウェイでレイモンドカーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を舞台化するために奔走して行く…

監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ。彼の作品は一貫して、「コミュニケーションがうまくいかない家族が、絆を取り戻すまで。」を描いています。「21グラム」「ビューティフル」では、余命を宣告された男が、残された家族のために何とか生きようとする物語です。「バベル」では、菊池凜子と役所浩二の親子が、コミュニケーションがうまくいっていないことを、菊池凜子演じる娘が、耳が聞こえないという設定を通じて、物理的に表現しています。そこで、今回の「バードマン」ですが、マイケルキートン演じるリーガンと、エマストーン演じる娘のサマンサが口論するシーンで交わされた会話は、おそらく実際の監督と娘との間に交わされた会話です。結局のところリーガンは、愛されたかった、「無知」であった。誰かに生きる意味を与えてほしかったのだろう。その心の葛藤が、バードマンとして聞こえてきます。彼のエゴイズムにあふれたもう一つの人格でもあります。プレビューで酷評され、エドワードノートン演じる中堅俳優に舞台をめちゃくちゃにされ、タイムズスクエアをパンツ一枚で走り回る羽目に陥ってしまいます。とうとう追い詰められた彼は、芝居のラストで使う銃に実弾を込める。世界に絶望した彼は、死をもって作品を後世に残そうとしたのである。しかし、結局は死ねなかった。代わりに鼻を撃った。鼻は、鼻につくという表現があるように、傲慢さ、エゴイズムの象徴として使われます。治療の後の顔は、まるでバードマンのような顔である。彼は、鼻を吹き飛ばすことで、自分のエゴイズムと決別しました。むしろ、一体化したのです。おもむろに窓から飛び出したリーガンを、サマンサは見上げる。やっと彼は飛べたのである。自己実現を果たせたのです。

この映画は、今までの監督作と違い、明確な「コメディ」です。再生をシリアスに描いていた今までの監督とは大違いです。しかし、この映画はアカデミー作品賞を受賞しました。まさしく「無知がもたらす予期せぬ奇跡」でした。

あとがき

今回は前回の記事の補論と言う形をとりました。なので、ちょっと内容が薄いですが、ご了承ください。前回と今回の記事は、誰しもが共感できる要素を含んだ作品を紹介したと思います。それぞれの人生経験の中に引っかかってくれれば、幸いです。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

 

 

 

 

 

アイデンティティーの揺らぎをテーマにした作品たち。「ブレードランナー」 「マトリックス」 「ファイトクラブ」そして「仮面ライダー555」

今回は、いわゆる「アイデンティティークライシス」をメインテーマに据えた作品たちを紹介していきたいと思います。個人的には、このような実存主義的な問いを描いた作品が最も好きな作品と言っていいでしょう。それでは、紹介していきます

注意 紹介する作品に関するネタバレを含む場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

 

 

 

1 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

現実世界からは乖離しながらも、象徴性を持っている作品たちから紹介します。まず紹介するのが、「ブレードランナー」です。

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酸性雨が降り注ぐ2019年、人類の大半は地球を捨て、宇宙でレプリカントと呼ばれる人造人間に労働をさせていた。しかし、最新型であるネクサス6型のうち、6機が反乱を起こし、地球へとやってくる。レプリカント狩りを専門に行う刑事、デッカードは、今回も人間社会に溶け込もうとするレプリカントを始末するだけの仕事だと思っていたが、思わぬ事態へと発展していく…

この作品のメインテーマを要約すると、「本物に限りなく近い模造品は、本物と呼べるのだろうか」と言うことです。確かにレプリカントには感情移入ができず、寿命も4年と決められています。しかし、人間だって4年で死なないだけで、いつかは死にゆく生き物です。そして、この作品の終盤にある展開として、レプリカントが愛に目覚めるという展開があります。はっきりと、レプリカントが人類を超えてしまった瞬間です。ビジュアル的な意味でも、テーマ的な意味でも、この作品が与えた影響は大きいです。押井守版の「GHOST IN THE SHELL」は、レプリカントの視点から見た語り直しとして、フォロワー作の中でも、最大限評価している作品です。そして、この作品の原作者であるフィリップ・K・ディックの存在が、後々紹介していく映画になくてはならないと思います。彼は、麻薬中毒だったりしたためか、どの作品も、現実と別の世界の区別がつかなくなる。という作品構造を持った作品が多いです。アメリカの娯楽作の1ジャンルと化した構造です。夢の中に入り込んで記憶を植え付けようとする男たちを描いたクリストファーノーラン監督作「インセプション」もそうですが、特に次紹介する作品が、公開された時代も含め、もっとも語りやすい作品です

2 90年代という時代がもたらしたアイデンティティークライシス「マトリックス

 1990年代。それは、2度の世界大戦を終え、大恐慌もなく、アメリカの景気は安定していた時代です。ですが、安定していたからこそ、人々は生きる実感を失っていってしまったのではないかと思います。なぜなら、この項で紹介する作品は、90年代に作られた作品だからです。まずは、「マトリックス」です。

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トーマス・アンダーソンは、昼は大手プログラミング会社に勤め、夜は天才ハッカー ネオとして、コンピューター犯罪に手を染めていた。あるとき、「白ウサギについていけ」というメッセージを受け取り、謎の男モーフィアスと出会う。「この世界が仮想現実である」ということを知らされたトーマスは、現実世界に目覚めるかの選択を迫られる。覚醒したトーマスは、人類解放軍として、戦いに身を投じていく…

この作品の凄いところは、生きる実感をつかめない高度管理社会をコンピューターシュミレーションとして表現したところです。CGにばかり目が行きがちなこの作品ですが前述の「GHOST IN THE SHELL」や「不思議の国のアリス」に影響を受けた、寓話としての側面が強い作品です。やはり、99年にこの作品が世に出たことの意義が大きいと思います。そして、僕の最も敬愛する映画である「ファイト・クラブ」もこの年に公開されています。

3 僕は文明の思い上がりの象徴ともいえる物質至上主義を拒否する!「ファイト・クラブ

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主人公の「僕」は、自動車会社に勤務し、全米を飛び回りながら、リコール査定を行っている平凡な会社員である。高級マンションに住み、イケアの家具を買いそろえ、物質的には何不自由ない生活を送っていた。しかし、彼は不眠症を患っていた。ある日、彼は睾丸ガンのセラピーに参加する。そこで、彼は患者達の悲痛な告白を聞くことで、初めて生きる実感を得る。マーラと言う女が参加してくるまでは。彼女も彼と同じく、自分は病を患っていなかった。再び不眠症を患った「僕」は飛行機の中で一人の男と出会う。男の名は、タイラーダーデン。石鹸を売り歩く男だった。彼に出会った後、自宅が燃え、家具もブランド服も全て失った「僕」は、タイラーに助けを求め、バーで落ち合う。そこでタイラーに「俺を力いっぱい殴ってくれ」といわれた「僕」は、彼と殴り合いをする。再び生きる実感を得た「僕」は、タイラーと共に殴り合いクラブ「ファイトクラブ」を創設するが…

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僕がなぜここまで「ファイトクラブ」を敬愛するのかと言えば、アイデンティティーの揺らぎをこれ以上なく表現している作品であるという点と、僕が映画に求める要素のすべてが最高レベルで凝縮されている作品であるからです。前者としては、お気づきのように、主人公に名前がないことと、後半のとある展開によるものです。多くの人に見てもらいたいので、あえて言いませんが、とんでもない展開です。ここまで映画の展開に驚いたのは奇しくも、アイデンティティーの崩壊がテーマの、クリストファーノーラン監督作「メメント」や、ファイトクラブと同じデヴィッドフィンチャー監督作「セブン」ぐらいです。後者については、セックス、ドラッグ、バイオレンス、娯楽性、哲学性を僕は映画に求めているのですが、ここまで映画的な面白さと、我々観客に突きつける者の凄さを併せ持つ作品はないと思います。この映画が言いたいことは、「資本主義はクソだ! モナリザでケツを拭け!」と言うことであると思います。映画と言う限りなく資本主義的な表現媒体において、資本主義を完膚なきまでに否定している映画なんて、最高以外の何物でもありません。この作品をはっきりと意識したであろう作品に、「バードマン あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡」と言う作品があります。作品全体の展開や、エドワード・ノートンがキャスティングされている点など、こちらも僕の大好きな作品です。これは僕の持論ですが、生きている実感を掴めない男が主人公の映画に外れはありません。なぜならば、今の現代人は、「死んでいるように生きている」からです。つまり、21世紀を生きるすべての人々に対して、感情移入できる余地があるということです。それを、仮面ライダーというシリーズで表現した作品を最後に紹介します。

4 仮面ライダー龍騎仮面ライダー555を同時に語る理由

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さて、平成第1期のライダーの中では、この2作が好きです。なぜかと言えば、クウガから始まった仮面ライダーの再定義が、とうとう我々そのものにまでコミットしたと感じたからです。龍騎で語られた物語は、「人間はみなライダーである。」と言うことであり、願いを持って、今を生きている人間は、仮面ライダーになれる=悪の秘密結社に改造されるでも、運命で定められた事柄でもない、資格なんてない。と言うことを示した、非常に秀逸な物語であったと思います。純粋な願いを持った13人のバトル・ロワイヤルと言う構図は、競争主義にまみれた現代社会の比喩とも感じられます。そして、龍騎の次の555と言う順番が非常に意味があると思います。なぜならば、555における主人公「乾巧」と敵であるオルフェノク達は、夢を持たない無軌道な若者=アイデンティティーを喪失した者の象徴であるからです。前作の龍騎とは真逆の構図です。仮面ライダー=誰でも変身できる。と言う構図は変わらずにいますが、555の場合は、「名前を持たない怪物」たちが仮面ライダーと言う「名前」を得ることによって自らのアイデンティティーを再定義する。と言う物語として読み解くことが可能ではないでしょうか。日本のポップカルチャー全般に大きな影響を与えた作品だと思います。さて、まとめに入りたいと思います。

4 アイデンティティーの喪失がもたらすこと

ここまで紹介した作品たちは、どれもが同じテーマを描いています。それは、この命題がいかに普遍的で、長年議論されてきたかを物語ります。そもそも、実存主義が最初に提唱されたのは、ルネサンス以降のヨーロッパです。ルネサンスを言い換えれば、神の否定、宗教の否定、科学的なものの見方の肯定です。これ以降に発表されたのが、デカルトの「方法序説」における一節「我思う故に我有り」や、サルトルの「嘔吐」です。人がループ物を好むのも、同じ時間を繰り返すことが、現実の比喩であるからに他ならないのではないでしょうか。古典と呼ばれる作品には、それ相応の理由があります。昔の作品だからと言って、食わず嫌いするのは、非常にもったいないと思います。作品の評価には、その作品がいつ、どのような理由で作られたのかを把握する必要があります。自分に合う作品は、いつの時代の作品かもわかりません。皆さんも、いろいろな作品を見てみてください。僕のように、人生観が変わる作品に出会えるかもしれません。

以上でこの文を締めくくりたいと思います

 

「バタフライエフェクト」と「STEINS:GATE」と「君の名は。」から見る、センチメンタリズム。

 

 

今回は、私のフェイバリットムービーでもある、「バタフライエフェクト」と日本制アニメの最高傑作の一角を成すアニメだと個人的に思う「STEINS:GATE」と昨年大ヒットを巻き起こした、「君の名は。」に共通するとある演出を比較しつつ、それぞれの作品についての評価をしたいと思います

注意 今回の記事は、この3作のネタバレを含むので、ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

1.ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか 「バタフライエフェクト

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主人公のエヴァンは幼少時より記憶喪失に悩まされており、治療の一貫として日記を書き始めた。大学生になって記憶喪失は発生しなくなっていたが、ふと日記を読み返すと、その日記が書かれている地点の記憶にタイムリープする能力があることに気付く。不慮の事故で死んだ幼馴染の死を変えるため、過去改変を決意するが…

というのが大まかなあらすじです。この作品の特徴として、過去を改変するたびに、誰かの人生が狂って行くという無常さが挙げられます。他の時空改変SFと大きく異なる点です。タイトルの由来でもある、バタフライ効果とは「ブラジルの1匹のの羽ばたきはテキサス竜巻を引き起こすか?」ということですが、その理論が忠実に再現された脚本の完成度の高さは特筆すべきものがあると思います。それを最も証明するのは、ラストシーンです。

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8年後に雑踏ですれ違った2人は声をかけることなく、去っていく・・・ 恥ずかしながら、最初にこのシーンを見た時は、号泣したのを覚えています。このシーンのバックにかかるOasisの「Stop Crying Your Heart Out」も、より感動を強めてくれます。

さて、このすれ違い演出。今後、様々なフォロワー作品を生み出すこととなります。

その最も成功したフォロワー作品が次の作品です。

2.和製SFの最高峰 「STEINS:GATE

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秋葉原の小さな発明サークル「未来ガジェット研究所」のリーダー岡部倫太郎はある日、メンバーの椎名まゆりと共に向かった講義会場で、わずか17歳の天才少女、牧瀬紅莉栖と出会う。ラジオ会館の屋上で血だらけになった彼女を発見したことに驚いた岡部は、友人の橋田至に携帯メールを送信したが、めまいに襲われる。意識を取り戻した岡部が観た世界の様相は全く異なっていた・・・

 

私はこの作品を「時をかける少女」以降の日本SF史における一つの到達点としても、ADVのシナリオ面での到達点としても、最大限に評価したいと思います。日本的な恋愛観として、すれ違いのセンチメンタリズムが、日本のフィクションにはつきものです。「時をかける少女」で言えば、時間を隔てた2人の物理的には相いれない別れのシークエンスの部分=タイムリープ物との相性がいいことは明白です。それを踏まえて、この作品について語るならば、シナリオの構成そのものを円環構造にまで仕立てあげ、それをリアルなハードSF的な科学考証で 包み込み、魅力的なキャラクターたちのアンサンブルを大いに楽しむ・・・と、日本的なアニメ表現の優れた面が凝縮されていると感じます。特に牧瀬紅莉栖の死から歯車が狂いだし、むやみやたらな過去改変のせいでまゆりの死に直面する展開、それを回避していく中で、最も強力的であり、大切な存在になった紅莉栖の存在が、最初の地点に戻ることによって、最も残酷な形で浮き彫りになるという展開には、ただひたすら脱帽するばかりでした。そしてラストでのバタフライエフェクト演出。

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これには、完全にやられました。日本にしか作れないエンターテイメントであると思います。いわゆるライトSFとしての特異点がこの作品ならば、日本で唯一ハードSFに挑戦し成功したと個人的に思うのが、伊藤計劃の一連の作品群。特に、「ハーモニー」であると思うのですが、それは別の機会に・・・ さて、最後に、そのすれ違い演出が行き着くところまでいきすぎてしまったと思う作品を紹介します。

3.新海監督のMV君の名は。

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皆が観てると思うので、あらすじは省略。いやぁ。なぜこの映画が邦画歴代二位の興収になったのか、私はいまだにわからないですね・・・まあ、1位が売春少女を描いたアニメだし、多少はね? まあそれはともかくとして、元から一定数のコアなファンを獲得していた新海監督ですが、やはり私は監督の代表作と言えるであろう「秒速5センチメートル」が、一番好きです。前述している日本的恋愛描写であり、新海監督の十八番ともいえるすれ違い描写及びそれに伴う「エモさ」が最も結実した作品に他ならないと思います。それを踏まえた上での「君の名は」ですが、「電車」や「時空」といった新海作品お得意のモチーフに加え過去作ではどうしても拭いきれなかった童貞臭い気持ち悪さを払しょくし、若年層に向けたボーイミーツガール物としては完成度の高いものであったと思います。しかし、設定面の突っ込みどころの多さに加え、新海監督作品特有の楽曲紹介のMVとしての作品構成の部分だけはどうしても捨てきれなかったのが気になりました。確かにRADWIMPSの楽曲はどれも素晴らしいものばかりです。特にEDで流れる「なんでもないや」の一節「君のいない世界など夏休みの無い8月のよう」という歌詞には、これまで紹介してきたすべての作品に当てはまる歌詞だと思い、感慨を抱きました。しかし、出来が良ければ良いほどMVとしての側面が強くなってくると思います。それに加え、プロット面でも前述した2作品に比べ、新鮮味が薄く、それでいてリアリティラインの線引きを引ききれていないと感じました。特に最後のエピローグ的な場面における観客への過剰なサービスとも言える展開は、正直辟易してしまいました。まあ、あそこを無くしてしまうといよいよ「時をかける少女」とまるっきり同じになってしまうので、しょうがなかったのかも知れません。と言うことで、まとめに入りたいと思います。

4.まとめ

今回の記事を書く上で、改めて上記の3作品について考えてみましたが、やはりどれもがそれぞれの作品なりの解釈を持って、人とのすれ違いを描いて見せていたと思います。バタフライエフェクトは、あくまでも、自己犠牲の先に起こるすれ違いを、STEINS:GATEは、作品の円環構造の先にある確かな、そして待ち望んだハッピーエンドとしてのすれ違いを、君の名は。は人と人との縁を主軸にした、極めて真っ当なタッチで描いたすれ違いを、どれもきちんと、作品内では説得力を持って描かれていると改めて感じました。タイムリープ物と言うだけで、7割は面白いことが保証されているジャンルではあると思います。それに組み合わせる要素の取捨選択ができている点が、この3つの作品の評価点だと思います。と言うことで、この駄文を終わりたいと思います。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。