サブカルDA話シリーズvol3 「国民的」と「カルト的」の対比 カルト作品になるための方程式を考えるmeats「フリクリ」雑感
今回は、俗に言うところの「国民的」と「カルト的」を分けるものについて考えたいと思います。一応僕はそれなりに作品数を観ていると思いますが、数をこなすうちにだいたいの作品の構造が似ているものだと分かってきました。僕自身のためにも、それらを一度整理して文章化していきたいと思います。
1.カルト作品になるための必要条件
そもそも「カルト作品」とはなんなのでしょうか。ウィキペディアによれば「熱狂的ファンによる小グループによって支持される作品」のことでありますが、僕なりに定義してみると「人の人生を狂わせうる作品」であると思っています。では、世間的に「カルト作品」と呼ばれる作品をこれから何個か挙げてみます。
アタックオブザキラートマト
華氏451
殺しの烙印
サイレントランニング
シングストリート 未来へのうた
スパイナルタップ
時をかける少女(大林版)
時計仕掛けのオレンジ
2001年宇宙の旅
ナチュラルボーンキラーズ
ハロルドとモード 少年は虹を渡る
ビックリボウスキ
デヴィッドリンチの全作品
秒速五センチメートル
新世紀エヴァンゲリヲン
Category:カルト映画 - Wikipedia 他筆者の独断と偏見に基づく選定
と、このようになりました。では、この作品らに殆ど共通する事柄を考えてみましょう。
先に、僕の考える「カルト作品の方程式」を挙げておきます。
- 舞台が限定的であること
- 主人公の一人称で話が進行する
- 論理的である(一側面において)
まず1から。基本的に1都市、町が舞台の作品はカルト化しやすい傾向にあると思います。なぜならば、広い世界を最初から射程に入れてしまうと、”個人”の物語からは離れてしまうからです。ワンピースが「カルト」になりえないのは、最初から世界が開かれてしまっているからです。逆に、大林版時かけが「カルト」になりえたのは、尾道と言う都市を全く現実味のない人口感あふれる世界へと切り取って見せたからです。その理由の必然となっているのは、2の主人公の一人称での話の進行であると思います。思春期の少女の愛の微命の元に行われるめくるめくオカルト体験。それがあの映画の神秘性を担保していると思います。2を補強するのが3です。リンチの「ロストハイウェイ」などが顕著ですが、「主人公の内面では矛盾していない」タイプの物語は深く感情移入を”させられてしまう”のです。それこそが芸術なるものの魔力ではないでしょうか。(余談ですが、「ブレードランナー ファイナルカット版」は今挙げた1.2.3 すべてを完璧に強化してきているのが面白いと思います。特に、デッカードレプリカント説の強化によって2と3が際立っているのが面白いところ)
新海誠の「秒速五センチメートル」と「君の名は。」の関係性も面白いです。前者は男の妄念の後ろ暗い欲望を極めて詩的に描いて「カルト的」な熱狂を生んだ作品ですが、後者は監督の過去作をなぞりつつ、開かれた希望のあるオチをつけただけで「国民的」な熱狂を生み出しました。この差とはなんでしょうか。やはり、閉鎖的で息苦しい作品のほうが、熱気が高まるのは当然の事でしょう。僕は常日頃から「万人に開かれていること」は必ずしも美点ではないと思っている人間なので、「秒速」のほうに肩入れしてしまいます。そして「国民的」な作品に人生を狂わされうるということは、果たして人生は狂ったといえるのでしょうか。僕は違うと思います。何故ならば、他に狂った人の母数が多すぎるからです。偏愛という感情はバーゲンセールされるものでは無いと思います。だからこそ、ワンピースを読んで何かが変わったと思っている人間は実際に変わっているとは言えないのです。僕はファイトクラブを観て人生が変わったと確かに断言できます。観る前と後では僕と言う人間は全くの別物になっていたからです。人格や思考に影響を与えない表現など表現ではありません。僕はそれを肝に銘じて、映画製作の夢を追ってきたいと思います。さて、では次に、今回の記事を書くきっかけになった作品について話したいと思います。
2 流れ星の上に乗って 「フリクリ」
地方都市、疎瀬(まばせ)。大人びた言動をとりたがる小学6年生のナオ太は、女子高生のマミ美と、けだるい日常を送っていた。だが、自称宇宙人の謎の女・ハル子の乗ったベスパにはねられてから、すべてが変わった。ハル子はナオ太の家に強引に居座り、彼の日常をかき回す。殴られた頭からツノが生え、そこからロボットが出現したり。あるいはナオ太が街を救う事になったり。そんな中、ナオ太はハル子に惹かれていくのだったが。 https://www.style.fm/as/07_data/flcl.shtml
あらすじだけを見ても、前述した条件に当てはまっているのがわかると思います。舞台は地方都市。基本的に主人公に関係のない話はしません、更に、アニメーション作品のカルト化にはまたさらに多くの要素が絡まります。特にキャラクターの魅力と、作画のセンス。この2項が重要になってきます。フリクリは、この2つに長けているからこそ、ここまでの人気を得たのだと思います。しかし、僕はどうしてもこの作品に「熱狂」することが最後まで出来ませんでした。その理由は、前述の方程式の3 論理的である事という部分にあまりにも「律儀」であったからだと思います。つまり、このフリクリにある論理性や理屈は、開かれたものであるのです。4話の「バットを本番に触れるのかどうか」と言うくだりが特にそうですが、メインテーマを愚直なまでに説明する場面がやはり多いですし、設定面の説明もどこかあっさりしています。僕は事前の評判からこの作品で涙を流せることを期待していたのですが、涙は出ませんでした。このあたりが、非常にショックでした。作り手のやりたいことが手に取るようにわかり、作品を「見切れてしまう」ことがマイナスに働くなんて思いもしませんでした。ですが、この作品のおかげで、自分の作品の趣向への認識が改めてわかりましたし、今回の記事を書くことにもつながりました。そういう意味で、この作品は自分の中で重要な作品になりそうです。
あとがき
こと「フリクリ」に関しては、中学2年生の時に出会っていたら生涯ベストアニメに挙げていたであろう作品です。それだけに、今、このタイミングで「フリクリ」を見るということがこんな結果になるとは、ある意味予想外ではありました。僕は映画に「選ばれる」という感覚をとても大事にしています。カルト映画とは観る人を選ぶ映画が殆どですが、逆に言えば、選ばれた時のリターンも他の映画より大きいという事です。そんな映画に選ばれた時の気持ち良さを求めて、僕は映画を観続けるのでしょう。今後も、この経験を糧に、自分なりの作品評ができるように努力する次第です。
ここまでこの駄文を読んでくれた方 ありがとうございました。