それでも映画は廻っている

自分の映画 アニメ 特撮などへの考え方を明確にするためのブログです。

アイデンティティを確立する作品たち。「8 1/2」と「バードマン」

 

今回は、前回の記事    (アイデンティティーの揺らぎをテーマにした作品たち。「ブレードランナー」 「マトリックス」 「ファイトクラブ」そして「仮面ライダー555」 - This Not a Blog)

の補論となります。映画と言うものは、監督のその時の心情や、影響を受けた作品群を知ったうえで観れば、より感慨を増します。それが如実に出た作品群を紹介します。

注意 今回の記事にはネタバレが含まれているので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

 

1、フェデリコフェリーニ監督の世界「8 1/2

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著名な映画監督のグイドは、新作の構想と療養のため、温泉地へとやってくる。しかし、一向に定まらない映画内容と、周りの出資者に接する苦悩だけが積もっていく。いつしかグイドは、自らの理想の世界へと現実逃避していく…

 

まず、なぜこの映画のタイトルが「8 1/2」なのかということですが、本作がフェリーニ監督の単独作7本目であることと、処女作である「寄席の脚光」で共同監督をしたため、それを合わせたら、本作が、8と半分になるということです。今作の特徴として、ある種メタフィクションのような構造になっていることです。フェデリコフェリーニ自身が、この映画の主人公のように、映画製作に行き詰っていました。そこで、映画を作るのに悩むさまそれ自体を映画化すればよいという発想に至るのです。作中で主人公は、カトリックの神父と、カトリックを否定する左翼系の映画評論家との間で板挟みになります。そこで彼は悟ります。「このわけのわからない状況が、自分らしさだ。」そこで有名なラストシーンへとつながります。今までに出てきた登場人物すべてがパーティに出席し、彼に拍手をしてくれます。これは、まんま「エヴァンゲリオン」TV版の最終回ですし、「エヴァQ」にまでつながります。デヴィッドフィンチャーの「ゲーム」のラストにも同様の展開がありました。なぜ宮崎駿の「風立ちぬ」で庵野秀明を主演に据えたのか、これで明白になりました。まあアレのラストは、カプローニをメフィストテレス、堀越次郎をファウスト博士、里見菜穂子をグレートヒェンに置き換えれば、ファウストであることがわかりますが、同時に「創作者」の物語でもあるわけです。創作者にとっての自己実現は、作品の完成です。なぜなら、自分をさらけ出せるのは、文章を書く 絵を描く 映画を作るといった「表現」であるわけです。この「8 1/2」と言う作品は、すべての創作者に対する応援歌であると思います。機会があれば、ぜひご覧ください。

 

彼はもう一度羽ばたけるのか「バードマン あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡」

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リーガントンプソンは過去にスーパーヒーロー物のブロックバスター超大作「バードマン」に主演した落ち目の俳優である。彼は自分の人生に再起をかけるため、ブロードウェイでレイモンドカーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を舞台化するために奔走して行く…

監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ。彼の作品は一貫して、「コミュニケーションがうまくいかない家族が、絆を取り戻すまで。」を描いています。「21グラム」「ビューティフル」では、余命を宣告された男が、残された家族のために何とか生きようとする物語です。「バベル」では、菊池凜子と役所浩二の親子が、コミュニケーションがうまくいっていないことを、菊池凜子演じる娘が、耳が聞こえないという設定を通じて、物理的に表現しています。そこで、今回の「バードマン」ですが、マイケルキートン演じるリーガンと、エマストーン演じる娘のサマンサが口論するシーンで交わされた会話は、おそらく実際の監督と娘との間に交わされた会話です。結局のところリーガンは、愛されたかった、「無知」であった。誰かに生きる意味を与えてほしかったのだろう。その心の葛藤が、バードマンとして聞こえてきます。彼のエゴイズムにあふれたもう一つの人格でもあります。プレビューで酷評され、エドワードノートン演じる中堅俳優に舞台をめちゃくちゃにされ、タイムズスクエアをパンツ一枚で走り回る羽目に陥ってしまいます。とうとう追い詰められた彼は、芝居のラストで使う銃に実弾を込める。世界に絶望した彼は、死をもって作品を後世に残そうとしたのである。しかし、結局は死ねなかった。代わりに鼻を撃った。鼻は、鼻につくという表現があるように、傲慢さ、エゴイズムの象徴として使われます。治療の後の顔は、まるでバードマンのような顔である。彼は、鼻を吹き飛ばすことで、自分のエゴイズムと決別しました。むしろ、一体化したのです。おもむろに窓から飛び出したリーガンを、サマンサは見上げる。やっと彼は飛べたのである。自己実現を果たせたのです。

この映画は、今までの監督作と違い、明確な「コメディ」です。再生をシリアスに描いていた今までの監督とは大違いです。しかし、この映画はアカデミー作品賞を受賞しました。まさしく「無知がもたらす予期せぬ奇跡」でした。

あとがき

今回は前回の記事の補論と言う形をとりました。なので、ちょっと内容が薄いですが、ご了承ください。前回と今回の記事は、誰しもが共感できる要素を含んだ作品を紹介したと思います。それぞれの人生経験の中に引っかかってくれれば、幸いです。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。