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サブカルDA話シリーズvol1 日常系アニメ論


はじめに

この文章は作者の個人的な好き嫌いをも含めた文章です。読み手の考えと異なる可能性があるため、ご注意を。

2017年10月25日 画像追加及び加筆修正を行いました 

 

序章 90年代までのアニメ史

日常系アニメというジャンルはそれまでのアニメとは全く異なるものであった。具体的にどこが違うのかを説明するためには、90年代までのアニメを振り返る必要がある。まずは60年代からだ。60年代は日本にアニメ文化が本格的に浸透した年代でもある。

この時代を代表するアニメは「鉄腕アトム」であろう。日本で初の30分のアニメであるからだ。 現在のアニメの基本フォーマットを作ったという功績はとても大きい。 次に70年代を代表するアニメとしては「宇宙戦艦ヤマト」が挙げられる。SF設定の緻密さ、(第3艦橋以外)アニメブームを巻き起こした作品であることなど、アニメ史においては重要な作品であることに間違いはない。

しかし、80年代に「機動戦士ガンダム」が登場すると、ヤマトは役割を終えることとなる。リアルロボットと言うジャンルの礎となったことは言うまでもないが、スポンサーによる玩具展開も行われ、現在までの「商業主義的なアニメ」というものの礎となった。90年代には問題作「新世紀エヴァンゲリヲン」が登場する。

この作品は、豊富な裏設定による作品世界の構築 内向的で、自意識過剰な主人公像の提示など、00年代以降のポップカルチャー全体に通ずる要素の多くがこの作品で初めて提示された。これらの作品はその後数々の亜流を生み出していく。実際この4つの作品だけで現在のほとんどのアニメ作品は語れてしまう。それほどまでにエポックメイキングな作品なのである。

さて、ここからが本題となる。

 

第1章 日常系アニメの黎明期

99年 一つの漫画が連載を開始する。それが「あずまんが大王」である。

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この作品は、日常系の元祖と言える作品である。。みなみけアバンタイトルを引用するならば「日常を淡々と描く」事に一番特化した作品であると筆者は感じる。これ以降、日本の漫画界に「萌え4コマ」というジャンルが生まれることになる。作品の連載は2002年まで続き、日本の漫画界にありがちな作者の意向を無視し、強引に連載を続けさせることもなくきっちりと終らせることができた。そして同じく2002年にはアニメ化が行われ、原作のテイストをうまくアニメに落とし込み、日常系アニメの先駆者となった。だが、いかんせん早すぎたと筆者は感じる。このころはまだジャンル自体世の中に浸透しておらず、日常系アニメがオタク層に浸透しきるのは2007年の「らき☆すた」まで待たなくてはならない。その間の5年に、今までのアニメその物の構造を90年代までのアニメから、00年代後半のアニメへとブリッジする役割を負ったのが、2006年の「涼宮ハルヒの憂鬱」であると思う。

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本作は、厳密に言えば、「日常系」ではないが、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるストーリーの中に、日常描写を入れてきている。90年代と00年代後半をブリッジする作品と論じたのはこれが理由だ。本作の最大の功績は「萌え」文化を大衆に知らしめ、これ以降のサブカルチャーに多大な影響を与えたことだろう。また、ライトノベル原作のアニメの初の成功例と言っても過言ではない。この作品の放映後、アニメはまさしくハルヒが架けた橋の向こう側。つまり、アニメの中心が「萌え」となった世界へと移っていく。アニメと「萌え」が切り離せなくなる決定的な作品となったのは奇しくもハルヒと同じ京都アニメーションが送り出した作品「らき☆すた」である。

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本作は、「あずまんが大王」と同じく、「萌え4コマ」原作の作品である。ただし、コンプティーク連載ということもあってか、現在の日常系アニメの特徴ともいえる「日常系の皮をかぶったギャグ漫画」の元祖ともいえる作品でもある。本作は現在のアニメにも起こる現象である「聖地巡礼」が初めて起こった作品である。アニメで町おこしを行う方法が提示され、アニメという文化の利用価値が増えた。本作はハルヒと同様に、Youtubeニコニコ動画などでの人気も手伝い、大ヒットとなった。

この作品でアニメ制作会社としての実績、名声を確実なものとした京都アニメーションはこの後、さらなるヒットを飛ばす作品を作ることになる。だが、その作品が、現在までの日常系アニメの良い部分、悪い部分を一度に提示することとなってしまった。

第2章 キャラ萌え文化の功罪

らき☆すた」放映後、同じく「萌え4コマ」を原作とする作品が続々とアニメ化し始めた。「みなみけ」等がこれにあたる。これらの作品は「らき☆すた」的と形容するよりかは、前述の「あずまんが大王」的と言ったほうが良いだろう。「らき☆すた」のようにパロディを入れることもなく、あくまでも、「日常を淡々と描く」ことにこの時代の日常系アニメはまだ積極的であったと思う。だが、2009年、それまでの日常系のあり方を変えるアニメが放送される。

そのアニメの名は、「けいおん!」である。

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やはり「萌え4コマ」原作である。本作がそれまでの日常系アニメと何が違うか。それは作品全体の構造までもが「キャラ萌え」表現に特化していることである。具体的に言えば、主人公たちの可愛さに対する表現のために、ジブリ的、もしくは細田守的とも形容される「何気ない日常の動作をアニメーションで表現するというアニメ的快感、気持ちよさ」を追求しているということである。本作を何かに例えるならば、まさに「ぬるま湯」と言うところであろうか。心地よく保たれた温度の中でキャラクターたちが織り成す日常描写の気持ちよさ、多好感は2017年時点でも屈指である。本作は第1期の好評を受け、第2期も制作された。2期はより意識的に前述の表現を前面に推しており、ファンからも好評であった。楽曲の完成度の高さにも注目しなければならない。特に印象に残ったのは劇中曲「ふわふわ時間」 第2期前半オープニング「GO!GO! MANIAC」であろうか。

(ちなみに、筆者のお気に入り曲は、最終回で流れた「天使にふれたよ!」である。曲の進行という面で見れば「U&I」や劇場版用の3曲も捨てがたい。)しかし本作は、のちの日常系アニメで表面化することになる問題の布石が存在している。それは、あまりにも「キャラ萌え」が目的化しすぎて、作品その物の完成度が低くなってしまうという問題である。特にシナリオの出来が酷くなる場合が多い。本作ではその問題がまだそれほど表面化していない。一見終わることを感じさせず、しかし確実に終わりが訪れる一度きりの高校3年間を描いた脚本はキャラクターの所詮「萌え」描写にも直結しており、見事と言わざるを得ない。最終回は筆者も泣いてしまったのを覚えている。13+24話の物語としてのカタルシスは見事に達成されていたと思う。筆者の考えとして、キャラクターの描写の緻密さ=キャラクターの可愛さだと思っているので、安心して「あずにゃんペロペロ(^ω^)」と叫べるわけである。

だが、前述の問題点は、本作以降の日常系アニメについて回る問題となり、これ以降はこの問題との戦いであると筆者は感じる。

では、本作以降の日常系アニメはどのようなものなのか?

第3章 「ごちうさ」という名の悪夢

けいおん!」以降の日常系アニメは第2章で指摘した問題がそのまま出ている作品も目立ち始めることとなる。

ゆるゆり」や「きんいろモザイク」に関して言えば、やはりそういう作品だと言わざるを得ない。かわいければいいといえばそれまでだが、ストーリー性にのみ限って言えば、やはりこれまで挙げてきた作品には劣るだろう。逆に、TVシリーズでは凡庸な日常系アニメであったものが、劇場版で一気に恋愛系へシフトし、評価を上げた稀有な例が存在する。それが京都アニメーションの「たまこマーケット」及びその劇場版「たまこラブストーリー」である。

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本作は、「けいおん!」の呪縛に囚われた作品だと言える。特に作画に関して、この傾向が顕著だと言える。脚本も決して出来が良いとは言えないものであった。しかし、劇場版になると、作画も「けいおん!」の長所が効果的に機能し、脚本も完成度の高いものとなり、京都アニメーションの面目は保った形となった。これ以降京都アニメーションは日常系からは距離を置き、「けいおん!」の高校生活における「青春」要素をクローズアップした、「響けユーフォニアム」を2015年に制作することとなる。ここまでは日常系アニメの進化の歴史を見てきた。だが、前述した日常系アニメの問題点がとうとう極北に達してしまう作品が作られてしまった。例えるならば、映画、ロッキーシリーズにおける「ロッキー4 炎の友情」のような作品である。その作品の名は「ご注文はうさぎですか?」だ。

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筆者がこの文章を書いたのは、この作品に対する好評価に対して、警鐘を鳴らすためである。第2章で指摘した、「キャラ萌え」文化の問題点をブラッシュアップしたような作品である本作を手放しで絶賛することは、危険である。では、問題点を挙げて行こう。

まず、最大の問題点は、あざといまでのキャラクターの「萌え」描写の目的化、であろう。前述した筆者の考えとは対極に位置する構成であるし、いかんせん脚本の放棄が著しいと感じる。登場人物たちの目的に何一つ共感できず、リアリティを極限まで放棄した世界観に何を感じたらよいのか、わからなかった。基本的に「描写」と言えるものが何一つ存在しないのである。登場人物がしゃべるセリフに意味など無いし、物語と呼ぶにはあまりにも稚拙な脚本は論外である。ニコニコ動画などでは、異常に神格化されているようだが、所詮「萌え豚」の戯言であり、キャラクターの可愛さをある種のドラッグ、ポルノとしてしか見られない人間たちが愛好するのも頷ける。そういった観点からも、このアニメを傑作だということはできないと感じる。2つ目の問題点は、設定やキャラクター配置の新鮮味のなさ、である。これは、「お約束」と言ってしまえばそれまでであるが、同じ様なキャラクター配置である「のんのんびより」が4人グループの年齢をずらすことで新鮮さとキャラクターの個性にも繋がり、カルチャーギャップコメディとしての完成度もこちらより高かった事を考えると、お世辞にも完璧なキャラクター描写とは言えないだろう。これらのことから、「ご注文はうさぎですか?」は現代の悪しき日常系アニメの見本であり、同時に、現代日本のポップカルチャーの衰退がよくわかる作品である。では、そろそろこの不毛な文章を終わらせよう。

終章 日常系アニメの存在意義

これまで取り上げた作品の多くは「まんがタイムきらら」という漫画雑誌とその系列の雑誌によって生み出されてきたものが大半である。このことから、現代ではこの雑誌が原作のアニメは「きらら系」と揶揄されることも少なくない。だが、忘れないでほしい。確かにその中にはただ声優たちの痛々しい掛け合いを楽しむような肥溜めのような作品も多いが、それらの作品は過去の名作たちの良い意味でも、悪い意味でもある影響力の強さに起因するものであることを、

それらの作品を効果的に表現できるのは、アニメーションという枠組みの中だけであることも。つまり、「何気ない日常を淡々と描く」ことはアニメーションという文化こそが適していると言えるのである。それこそ、われわれ日本人がディズニーに勝ちうるアニメ的文化である。日本人はそれを自らの手で潰そうとしているからこそ、「ごちうさ」のような中身の無い凡庸な作品が生まれてしまうのだと思う。だが、それすらも糧として新たな名作が誕生していくのだと、筆者は信じている。事実、映画などにも言えることだが、表現物には「時代性」と言うものがつきものだ。これは、「グラン・トリノ」などの、リアルタイムでの批評を必要とするものと、いわゆる名作。それこそ「ファイト・クラブ」のような時代を超え、普遍的なテーマを扱い、古典となりうるものがある。このようなものは、作品ごとの点と点をつないだ線としてとらえなければ意味がない。日常系アニメにも、同じことが言えるのではないか?この手の作品をリアルタイムで批評することそれ自体に意味があるのだと筆者は感じる。ディスカッションと言う行為そのものの意義を、改めて問い直したい。