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アイデンティティーの揺らぎをテーマにした作品たち。「ブレードランナー」 「マトリックス」 「ファイトクラブ」そして「仮面ライダー555」

今回は、いわゆる「アイデンティティークライシス」をメインテーマに据えた作品たちを紹介していきたいと思います。個人的には、このような実存主義的な問いを描いた作品が最も好きな作品と言っていいでしょう。それでは、紹介していきます

注意 紹介する作品に関するネタバレを含む場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

 

 

 

1 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

現実世界からは乖離しながらも、象徴性を持っている作品たちから紹介します。まず紹介するのが、「ブレードランナー」です。

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酸性雨が降り注ぐ2019年、人類の大半は地球を捨て、宇宙でレプリカントと呼ばれる人造人間に労働をさせていた。しかし、最新型であるネクサス6型のうち、6機が反乱を起こし、地球へとやってくる。レプリカント狩りを専門に行う刑事、デッカードは、今回も人間社会に溶け込もうとするレプリカントを始末するだけの仕事だと思っていたが、思わぬ事態へと発展していく…

この作品のメインテーマを要約すると、「本物に限りなく近い模造品は、本物と呼べるのだろうか」と言うことです。確かにレプリカントには感情移入ができず、寿命も4年と決められています。しかし、人間だって4年で死なないだけで、いつかは死にゆく生き物です。そして、この作品の終盤にある展開として、レプリカントが愛に目覚めるという展開があります。はっきりと、レプリカントが人類を超えてしまった瞬間です。ビジュアル的な意味でも、テーマ的な意味でも、この作品が与えた影響は大きいです。押井守版の「GHOST IN THE SHELL」は、レプリカントの視点から見た語り直しとして、フォロワー作の中でも、最大限評価している作品です。そして、この作品の原作者であるフィリップ・K・ディックの存在が、後々紹介していく映画になくてはならないと思います。彼は、麻薬中毒だったりしたためか、どの作品も、現実と別の世界の区別がつかなくなる。という作品構造を持った作品が多いです。アメリカの娯楽作の1ジャンルと化した構造です。夢の中に入り込んで記憶を植え付けようとする男たちを描いたクリストファーノーラン監督作「インセプション」もそうですが、特に次紹介する作品が、公開された時代も含め、もっとも語りやすい作品です

2 90年代という時代がもたらした傑作たち

 1990年代。それは、2度の世界大戦を終え、大恐慌もなく、アメリカの景気は安定していた時代です。ですが、安定していたからこそ、人々は生きる実感を失っていってしまったのではないかと思います。なぜなら、この項で紹介する作品は、90年代に作られた作品だからです。まずは、「マトリックス」です。

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トーマス・アンダーソンは、昼は大手プログラミング会社に勤め、夜は天才ハッカー ネオとして、コンピューター犯罪に手を染めていた。あるとき、「白ウサギについていけ」というメッセージを受け取り、謎の男モーフィアスと出会う。「この世界が仮想現実である」ということを知らされたトーマスは、現実世界に目覚めるかの選択を迫られる。覚醒したトーマスは、人類解放軍として、戦いに身を投じていく…

この作品の凄いところは、生きる実感をつかめない高度管理社会をコンピューターシュミレーションとして表現したところです。CGにばかり目が行きがちなこの作品ですが前述の「GHOST IN THE SHELL」や「不思議の国のアリス」に影響を受けた、寓話としての側面が強い作品です。やはり、99年にこの作品が世に出たことの意義が大きいと思います。そして、僕の最も敬愛する映画である「ファイト・クラブ」もこの年に公開されています。

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主人公の「僕」は、自動車会社に勤務し、全米を飛び回りながら、リコール査定を行っている平凡な会社員である。高級マンションに住み、イケアの家具を買いそろえ、物質的には何不自由ない生活を送っていた。しかし、彼は不眠症を患っていた。ある日、彼は睾丸ガンのセラピーに参加する。そこで、彼は患者達の悲痛な告白を聞くことで、初めて生きる実感を得る。マーラと言う女が参加してくるまでは。彼女も彼と同じく、自分は病を患っていなかった。再び不眠症を患った「僕」は飛行機の中で一人の男と出会う。男の名は、タイラーダーデン。石鹸を売り歩く男だった。彼に出会った後、自宅が燃え、家具もブランド服も全て失った「僕」は、タイラーに助けを求め、バーで落ち合う。そこでタイラーに「俺を力いっぱい殴ってくれ」といわれた「僕」は、彼と殴り合いをする。再び生きる実感を得た「僕」は、タイラーと共に殴り合いクラブ「ファイトクラブ」を創設するが…

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僕がなぜここまで「ファイトクラブ」を敬愛するのかと言えば、アイデンティティーの揺らぎをこれ以上なく表現している作品であるという点と、僕が映画に求める要素のすべてが最高レベルで凝縮されている作品であるからです。前者としては、お気づきのように、主人公に名前がないことと、後半のとある展開によるものです。多くの人に見てもらいたいので、あえて言いませんが、とんでもない展開です。ここまで映画の展開に驚いたのは奇しくも、アイデンティティーの崩壊がテーマの、クリストファーノーラン監督作「メメント」や、ファイトクラブと同じデヴィッドフィンチャー監督作「セブン」ぐらいです。後者については、セックス、ドラッグ、バイオレンス、娯楽性、哲学性を僕は映画に求めているのですが、ここまで映画的な面白さと、我々観客に突きつける者の凄さを併せ持つ作品はないと思います。この映画が言いたいことは、「資本主義はクソだ! モナリザでケツを拭け!」と言うことであると思います。映画と言う限りなく資本主義的な表現媒体において、資本主義を完膚なきまでに否定している映画なんて、最高以外の何物でもありません。この作品をはっきりと意識したであろう作品に、「バードマン あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡」と言う作品があります。作品全体の展開や、エドワード・ノートンがキャスティングされている点など、こちらも僕の大好きな作品です。これは僕の持論ですが、生きている実感を掴めない男が主人公の映画に外れはありません。なぜならば、今の現代人は、「死んでいるように生きている」からです。つまり、21世紀を生きるすべての人々に対して、感情移入できる余地があるということです。それを、仮面ライダーというシリーズで表現した作品を最後に紹介します。

3 仮面ライダー龍騎仮面ライダー555を同時に語る理由

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さて、平成第1期のライダーの中では、この2作が圧倒的に好きです。なぜかと言えば、クウガから始まった仮面ライダーの再定義が、とうとう我々そのものにまでコミットしたと感じたからです。龍騎で語られた物語は、「人間はみなライダーである。」と言うことであり、願いを持って、今を生きている人間は、仮面ライダーになれる=悪の秘密結社に改造されるでも、運命で定められた事柄でもない、資格なんてない。と言うことを示した、非常に秀逸な物語であったと思います。純粋な願いを持った13人のバトル・ロワイヤルと言う構図は、競争主義にまみれた現代社会の比喩とも感じられます。そして、龍騎の次の555と言う順番が非常に意味があると思います。なぜならば、555における主人公「乾巧」と敵であるオルフェノク達は、夢を持たない無軌道な若者=アイデンティティーを喪失した者の象徴であるからです。前作の龍騎とは真逆の構図です。仮面ライダー=誰でも変身できる。と言う構図は変わらずにいますが、555の場合は、「名前を持たない怪物」たちが仮面ライダーと言う「名前」を得ることによって自らのアイデンティティーを再定義する。と言う物語として読み解くことが可能ではないでしょうか。日本のポップカルチャー全般に大きな影響を与えた作品だと思います。さて、まとめに入りたいと思います。

4 アイデンティティーの喪失がもたらすこと

ここまで紹介した作品たちは、どれもが同じテーマを描いています。それは、この命題がいかに普遍的で、長年議論されてきたかを物語ります。そもそも、実存主義が最初に提唱されたのは、ルネサンス以降のヨーロッパです。ルネサンスを言い換えれば、神の否定、宗教の否定、科学的なものの見方の肯定です。これ以降に発表されたのが、デカルトの「方法序説」における一節「我思う故に我有り」や、サルトルの「嘔吐」です。人がループ物を好むのも、同じ時間を繰り返すことが、現実の比喩であるからに他ならないのではないでしょうか。古典と呼ばれる作品には、それ相応の理由があります。昔の作品だからと言って、食わず嫌いするのは、非常にもったいないと思います。作品の評価には、その作品がいつ、どのような理由で作られたのかを把握する必要があります。自分に合う作品は、いつの時代の作品かもわかりません。皆さんも、いろいろな作品を見てみてください。僕のように、人生観が変わる作品に出会えるかもしれません。

以上でこの文を締めくくりたいと思います

 

「バタフライエフェクト」と「STEINS:GATE」と「君の名は。」から見る、センチメンタリズム。

 

 

今回は、私のオールタイムベスト10に入る映画でもある、「バタフライエフェクト」と日本アニメの最高傑作だと個人的に思う「STEINS:GATE」と昨年大ヒットを巻き起こした、「君の名は。」に共通するとある演出を比較しつつ、それぞれの作品についての評価をしたいと思います

注意 今回の記事は、この3作のネタバレを含むので、ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

1、オールタイムベスト級の感動「バタフライエフェクト

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主人公のエヴァンは幼少時より記憶喪失に悩まされており、治療の一貫として日記を書き始めた。大学生になって記憶喪失は発生しなくなっていたが、ふと日記を読み返すと、その日記が書かれている地点の記憶にタイムリープする能力があることに気付く。不慮の事故で死んだ幼馴染の死を変えるため、過去改変を決意するが…

というのが大まかなあらすじです。この作品の特徴として、過去を改変するたびに、誰かの人生が狂って行くという無常さが挙げられます。他の時空改変SFと大きく異なる点です。タイトルの由来でもある、バタフライ効果とは「ブラジルの1匹のの羽ばたきはテキサス竜巻を引き起こすか?」ということですが、その理論が忠実に再現された脚本の完成度の高さは特筆すべきものがあると思います。それを最も証明するのは、ラストシーンです。

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8年後に雑踏ですれ違った2人は声をかけることなく、去っていく・・・ 恥ずかしながら、最初にこのシーンを見た時は、号泣したのを覚えています。このシーンのバックにかかるOasisの「Stop Crying Your Heart Out」も、より感動を強めてくれます。

さて、このすれ違い演出。今後、様々なフォロワー作品を生み出すこととなります。

その最も成功したフォロワー作品が次の作品です。

2、和製SFの最高峰 「STEINS:GATE

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秋葉原の小さな発明サークル「未来ガジェット研究所」のリーダー岡部倫太郎はある日、メンバーの椎名まゆりと共に向かった講義会場で、わずか17歳の天才少女、牧瀬紅莉栖と出会う。ラジオ会館の屋上で血だらけになった彼女を発見したことに驚いた岡部は、友人の橋田至に携帯メールを送信したが、めまいに襲われる。意識を取り戻した岡部が観た世界の様相は全く異なっていた・・・

 

私はこの作品を「時をかける少女」以降の日本SF史における一つの到達点としても、ADVのシナリオ面での到達点としても、最大限に評価したいと思います。日本的な恋愛観として、すれ違いのセンチメンタリズムが、日本のフィクションにはつきものです。「時をかける少女」で言えば、時間を隔てた2人の物理的には相いれない別れのシークエンスの部分=タイムリープ物との相性がいいことは明白です。それを踏まえて、この作品について語るならば、シナリオの構成そのものを円環構造にまで仕立てあげ、それをリアルなハードSF的な科学考証で 包み込み、魅力的なキャラクターたちのアンサンブルを大いに楽しむ・・・と、日本的なアニメ表現の優れた面が凝縮されていると感じます。特に牧瀬紅莉栖の死から歯車が狂いだし、むやみやたらな過去改変のせいでまゆりの死に直面する展開、それを回避していく中で、最も強力的であり、大切な存在になった紅莉栖の存在が、最初の地点に戻ることによって、最も残酷な形で浮き彫りになるという展開には、ただひたすら脱帽するばかりでした。そしてラストでのバタフライエフェクト演出。

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これには、完全にやられました。日本にしか作れないエンターテイメントであると思います。いわゆるライトSFとしての特異点がこの作品ならば、日本で唯一ハードSFに挑戦し成功したと個人的に思うのが、伊藤計劃の一連の作品群。特に、「ハーモニー」であると思うのですが、それは別の機会に・・・ さて、最後に、そのすれ違い演出が行き着くところまでいきすぎてしまったと思う作品を紹介します。

3、新海監督のMV君の名は。

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皆が観てると思うので、あらすじは省略。いやぁ。なぜこの映画が邦画歴代二位の興収になったのか、私はいまだにわからないですね・・・まあ、1位が売春少女を描いたアニメだし、多少はね? まあそれはともかくとして、元から一定数のコアなファンを獲得していた新海監督ですが、やはり私は監督の代表作と言えるであろう「秒速5センチメートル」が、一番好きです。前述している日本的恋愛描写であり、新海監督の十八番ともいえるすれ違い描写及びそれに伴う「エモさ」が最も結実した作品に他ならないと思います。それを踏まえた上での「君の名は」ですが、「電車」や「時空」といった新海作品お得意のモチーフに加え過去作ではどうしても拭いきれなかった童貞臭い気持ち悪さを払しょくし、若年層に向けたボーイミーツガール物としては完成度の高いものであったと思います。しかし、設定面の突っ込みどころの多さに加え、新海監督作品特有の楽曲紹介のMVとしての作品構成の部分だけはどうしても捨てきれなかったのが気になりました。確かにRADWIMPSの楽曲はどれも素晴らしいものばかりです。特にEDで流れる「なんでもないや」の一節「君のいない世界など夏休みの無い8月のよう」という歌詞には、これまで紹介してきたすべての作品に当てはまる歌詞だと思い、感慨を抱きました。しかし、出来が良ければ良いほどMVとしての側面が強くなってくると思います。それに加え、プロット面でも前述した2作品に比べ、新鮮味が薄く、それでいてリアリティラインの線引きを引ききれていないと感じました。特に最後のエピローグ的な場面における観客への過剰なサービスとも言える展開は、正直辟易してしまいました。まあ、あそこを無くしてしまうといよいよ「時をかける少女」とまるっきり同じになってしまうので、しょうがなかったのかも知れません。と言うことで、まとめに入りたいと思います。

4 まとめ

今回の記事を書く上で、改めて上記の3作品について考えてみましたが、やはりどれもがそれぞれの作品なりの解釈を持って、人とのすれ違いを描いて見せていたと思います。バタフライエフェクトは、あくまでも、自己犠牲の先に起こるすれ違いを、STEINS:GATEは、作品の円環構造の先にある確かな、そして待ち望んだハッピーエンドとしてのすれ違いを、君の名は。は人と人との縁を主軸にした、極めて真っ当なタッチで描いたすれ違いを、どれもきちんと、作品内では説得力を持って描かれていると改めて感じました。タイムリープ物と言うだけで、7割は面白いことが保証されているジャンルではあると思います。それに組み合わせる要素の取捨選択ができている点が、この3つの作品の評価点だと思います。と言うことで、この駄文を終わりたいと思います。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。 

 

サブカルDA話シリーズvol1 日常系アニメ論


はじめに

この文章は作者の個人的な好き嫌いをも含めた文章です。読み手の考えと異なる可能性があるため、ご注意を。

2017年10月25日 画像追加及び加筆修正を行いました 

 

序章 90年代までのアニメ史

日常系アニメというジャンルはそれまでのアニメとは全く異なるものであった。具体的にどこが違うのかを説明するためには、90年代までのアニメを振り返る必要がある。まずは60年代からだ。60年代は日本にアニメ文化が本格的に浸透した年代でもある。

この時代を代表するアニメは「鉄腕アトム」であろう。日本で初の30分のアニメであるからだ。 現在のアニメの基本フォーマットを作ったという功績はとても大きい。 次に70年代を代表するアニメとしては「宇宙戦艦ヤマト」が挙げられる。SF設定の緻密さ、(第3艦橋以外)アニメブームを巻き起こした作品であることなど、アニメ史においては重要な作品であることに間違いはない。

しかし、80年代に「機動戦士ガンダム」が登場すると、ヤマトは役割を終えることとなる。リアルロボットと言うジャンルの礎となったことは言うまでもないが、スポンサーによる玩具展開も行われ、現在までの「商業主義的なアニメ」というものの礎となった。90年代には問題作「新世紀エヴァンゲリヲン」が登場する。

この作品は、豊富な裏設定による作品世界の構築 内向的で、自意識過剰な主人公像の提示など、00年代以降のポップカルチャー全体に通ずる要素の多くがこの作品で初めて提示された。これらの作品はその後数々の亜流を生み出していく。実際この4つの作品だけで現在のほとんどのアニメ作品は語れてしまう。それほどまでにエポックメイキングな作品なのである。

さて、ここからが本題となる。

 

第1章 日常系アニメの黎明期

99年 一つの漫画が連載を開始する。それが「あずまんが大王」である。

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この作品は、日常系の元祖と言える作品である。。みなみけアバンタイトルを引用するならば「日常を淡々と描く」事に一番特化した作品であると筆者は感じる。これ以降、日本の漫画界に「萌え4コマ」というジャンルが生まれることになる。作品の連載は2002年まで続き、日本の漫画界にありがちな作者の意向を無視し、強引に連載を続けさせることもなくきっちりと終らせることができた。そして同じく2002年にはアニメ化が行われ、原作のテイストをうまくアニメに落とし込み、日常系アニメの先駆者となった。だが、いかんせん早すぎたと筆者は感じる。このころはまだジャンル自体世の中に浸透しておらず、日常系アニメがオタク層に浸透しきるのは2007年の「らき☆すた」まで待たなくてはならない。その間の5年に、今までのアニメその物の構造を90年代までのアニメから、00年代後半のアニメへとブリッジする役割を負ったのが、2006年の「涼宮ハルヒの憂鬱」であると思う。

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本作は、厳密に言えば、「日常系」ではないが、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるストーリーの中に、日常描写を入れてきている。90年代と00年代後半をブリッジする作品と論じたのはこれが理由だ。本作の最大の功績は「萌え」文化を大衆に知らしめ、これ以降のサブカルチャーに多大な影響を与えたことだろう。また、ライトノベル原作のアニメの初の成功例と言っても過言ではない。この作品の放映後、アニメはまさしくハルヒが架けた橋の向こう側。つまり、アニメの中心が「萌え」となった世界へと移っていく。アニメと「萌え」が切り離せなくなる決定的な作品となったのは奇しくもハルヒと同じ京都アニメーションが送り出した作品「らき☆すた」である。

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本作は、「あずまんが大王」と同じく、「萌え4コマ」原作の作品である。ただし、コンプティーク連載ということもあってか、現在の日常系アニメの特徴ともいえる「日常系の皮をかぶったギャグ漫画」の元祖ともいえる作品でもある。本作は現在のアニメにも起こる現象である「聖地巡礼」が初めて起こった作品である。アニメで町おこしを行う方法が提示され、アニメという文化の利用価値が増えた。本作はハルヒと同様に、Youtubeニコニコ動画などでの人気も手伝い、大ヒットとなった。

この作品でアニメ制作会社としての実績、名声を確実なものとした京都アニメーションはこの後、さらなるヒットを飛ばす作品を作ることになる。だが、その作品が、現在までの日常系アニメの良い部分、悪い部分を一度に提示することとなってしまった。

第2章 キャラ萌え文化の功罪

らき☆すた」放映後、同じく「萌え4コマ」を原作とする作品が続々とアニメ化し始めた。「みなみけ」等がこれにあたる。これらの作品は「らき☆すた」的と形容するよりかは、前述の「あずまんが大王」的と言ったほうが良いだろう。「らき☆すた」のようにパロディを入れることもなく、あくまでも、「日常を淡々と描く」ことにこの時代の日常系アニメはまだ積極的であったと思う。だが、2009年、それまでの日常系のあり方を変えるアニメが放送される。

そのアニメの名は、「けいおん!」である。

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やはり「萌え4コマ」原作である。本作がそれまでの日常系アニメと何が違うか。それは作品全体の構造までもが「キャラ萌え」表現に特化していることである。具体的に言えば、主人公たちの可愛さに対する表現のために、ジブリ的、もしくは細田守的とも形容される「何気ない日常の動作をアニメーションで表現するというアニメ的快感、気持ちよさ」を追求しているということである。本作を何かに例えるならば、まさに「ぬるま湯」と言うところであろうか。心地よく保たれた温度の中でキャラクターたちが織り成す日常描写の気持ちよさ、多好感は2017年時点でも屈指である。本作は第1期の好評を受け、第2期も制作された。2期はより意識的に前述の表現を前面に推しており、ファンからも好評であった。楽曲の完成度の高さにも注目しなければならない。特に印象に残ったのは劇中曲「ふわふわ時間」 第2期前半オープニング「GO!GO! MANIAC」であろうか。

(ちなみに、筆者のお気に入り曲は、最終回で流れた「天使にふれたよ!」である。曲の進行という面で見れば「U&I」や劇場版用の3曲も捨てがたい。)しかし本作は、のちの日常系アニメで表面化することになる問題の布石が存在している。それは、あまりにも「キャラ萌え」が目的化しすぎて、作品その物の完成度が低くなってしまうという問題である。特にシナリオの出来が酷くなる場合が多い。本作ではその問題がまだそれほど表面化していない。一見終わることを感じさせず、しかし確実に終わりが訪れる一度きりの高校3年間を描いた脚本はキャラクターの所詮「萌え」描写にも直結しており、見事と言わざるを得ない。最終回は筆者も泣いてしまったのを覚えている。13+24話の物語としてのカタルシスは見事に達成されていたと思う。筆者の考えとして、キャラクターの描写の緻密さ=キャラクターの可愛さだと思っているので、安心して「あずにゃんペロペロ(^ω^)」と叫べるわけである。

だが、前述の問題点は、本作以降の日常系アニメについて回る問題となり、これ以降はこの問題との戦いであると筆者は感じる。

では、本作以降の日常系アニメはどのようなものなのか?

第3章 「ごちうさ」という名の悪夢

けいおん!」以降の日常系アニメは第2章で指摘した問題がそのまま出ている作品も目立ち始めることとなる。

ゆるゆり」や「きんいろモザイク」に関して言えば、やはりそういう作品だと言わざるを得ない。かわいければいいといえばそれまでだが、ストーリー性にのみ限って言えば、やはりこれまで挙げてきた作品には劣るだろう。逆に、TVシリーズでは凡庸な日常系アニメであったものが、劇場版で一気に恋愛系へシフトし、評価を上げた稀有な例が存在する。それが京都アニメーションの「たまこマーケット」及びその劇場版「たまこラブストーリー」である。

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本作は、「けいおん!」の呪縛に囚われた作品だと言える。特に作画に関して、この傾向が顕著だと言える。脚本も決して出来が良いとは言えないものであった。しかし、劇場版になると、作画も「けいおん!」の長所が効果的に機能し、脚本も完成度の高いものとなり、京都アニメーションの面目は保った形となった。これ以降京都アニメーションは日常系からは距離を置き、「けいおん!」の高校生活における「青春」要素をクローズアップした、「響けユーフォニアム」を2015年に制作することとなる。ここまでは日常系アニメの進化の歴史を見てきた。だが、前述した日常系アニメの問題点がとうとう極北に達してしまう作品が作られてしまった。例えるならば、映画、ロッキーシリーズにおける「ロッキー4 炎の友情」のような作品である。その作品の名は「ご注文はうさぎですか?」だ。

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筆者がこの文章を書いたのは、この作品に対する好評価に対して、警鐘を鳴らすためである。第2章で指摘した、「キャラ萌え」文化の問題点をブラッシュアップしたような作品である本作を手放しで絶賛することは、危険である。では、問題点を挙げて行こう。

まず、最大の問題点は、あざといまでのキャラクターの「萌え」描写の目的化、であろう。前述した筆者の考えとは対極に位置する構成であるし、いかんせん脚本の放棄が著しいと感じる。登場人物たちの目的に何一つ共感できず、リアリティを極限まで放棄した世界観に何を感じたらよいのか、わからなかった。基本的に「描写」と言えるものが何一つ存在しないのである。登場人物がしゃべるセリフに意味など無いし、物語と呼ぶにはあまりにも稚拙な脚本は論外である。ニコニコ動画などでは、異常に神格化されているようだが、所詮「萌え豚」の戯言であり、キャラクターの可愛さをある種のドラッグ、ポルノとしてしか見られない人間たちが愛好するのも頷ける。そういった観点からも、このアニメを傑作だということはできないと感じる。2つ目の問題点は、設定やキャラクター配置の新鮮味のなさ、である。これは、「お約束」と言ってしまえばそれまでであるが、同じ様なキャラクター配置である「のんのんびより」が4人グループの年齢をずらすことで新鮮さとキャラクターの個性にも繋がり、カルチャーギャップコメディとしての完成度もこちらより高かった事を考えると、お世辞にも完璧なキャラクター描写とは言えないだろう。これらのことから、「ご注文はうさぎですか?」は現代の悪しき日常系アニメの見本であり、同時に、現代日本のポップカルチャーの衰退がよくわかる作品である。では、そろそろこの不毛な文章を終わらせよう。

終章 日常系アニメの存在意義

これまで取り上げた作品の多くは「まんがタイムきらら」という漫画雑誌とその系列の雑誌によって生み出されてきたものが大半である。このことから、現代ではこの雑誌が原作のアニメは「きらら系」と揶揄されることも少なくない。だが、忘れないでほしい。確かにその中にはただ声優たちの痛々しい掛け合いを楽しむような肥溜めのような作品も多いが、それらの作品は過去の名作たちの良い意味でも、悪い意味でもある影響力の強さに起因するものであることを、

それらの作品を効果的に表現できるのは、アニメーションという枠組みの中だけであることも。つまり、「何気ない日常を淡々と描く」ことはアニメーションという文化こそが適していると言えるのである。それこそ、われわれ日本人がディズニーに勝ちうるアニメ的文化である。日本人はそれを自らの手で潰そうとしているからこそ、「ごちうさ」のような中身の無い凡庸な作品が生まれてしまうのだと思う。だが、それすらも糧として新たな名作が誕生していくのだと、筆者は信じている。事実、映画などにも言えることだが、表現物には「時代性」と言うものがつきものだ。これは、「グラン・トリノ」などの、リアルタイムでの批評を必要とするものと、いわゆる名作。それこそ「ファイト・クラブ」のような時代を超え、普遍的なテーマを扱い、古典となりうるものがある。このようなものは、作品ごとの点と点をつないだ線としてとらえなければ意味がない。日常系アニメにも、同じことが言えるのではないか?この手の作品をリアルタイムで批評することそれ自体に意味があるのだと筆者は感じる。ディスカッションと言う行為そのものの意義を、改めて問い直したい。     

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ブログを開設しました、シュローダーと言う者です。twitter上では交流させてもらっている方もいるかと思います。このブログは、主に自分が観た映画 アニメ 漫画 特撮などに関することを中心に書いていきたいと思います。まだまだ未熟な文章であると思いますが、よろしくお願いします。