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自分の映画 アニメ 特撮などへの考え方を明確にするためのブログです。

僕の好きな劇場用長編アニメーションについて。 アニメ映画は、「イノセントの消失」によって繋がっていく。

今回は、リクエストがあったので、劇場用長編アニメーションをテーマに、僕の好きな作品を語りたいと思います。大きく分けて2つ 日本と海外のアニメ映画に分けて話を進めていきます。そしてそれらの作品に潜む共通のテーマ「イノセントの消失」についても論じていきますそれでは、本編をどうぞ。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

日本製長編アニメーション 宮崎駿という作家

日本製長編アニメーションを語るうえで、やはり宮崎駿は外せません。「風の谷のナウシカ」より始まったスタジオジブリ作品の歴史は、今や全世界的なカルチャーになっています。彼の作品には、やはり明確な作家性が存在します。何かと言えば「イノセントを持つ子供が、世界の暗部を知り、大人になる話」であるといえると思います。つまり、毎回「不思議の国のアリス」をやっているともいえます。アリスこそ、「イノセントの消失」つまり、子供から大人になり、純粋さを失い、汚れた世界に向き合っていく物語の典型例です。それに加えて、汚い世界の肯定を行うのが宮崎駿です。ナウシカの原作版(腐海を巡る価値観)を見ればよくわかりますし、魔女と宅急便における「魔法」の在り方(風邪をひくことで魔法が使えない=少女が初潮を迎え、女になることの象徴。黒猫のジジとはもう話せなくなってしまう。最も不思議のアリスに近い。)千と千尋における銭湯(湯屋 ソープランド及び性風俗産業)などに見られる汚れた世界の真実。その中で子供が成長していく物語として、宮崎駿作品は非常に論じがいがある作品群であると思います。では、これ以降のアニメ作家は何を生み出してきたのか。

細田守と言うアンビバレント

最初に言っておくと、僕は細田守作品が好きではありません。確かに、ことアニメ的快感。つまり、「何気ない日常の所作をアニメで再現する」という快感の面ではかなり質が高いと思います。ですが、はっきりと問題点が多い作品も目立ちます。特に「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」の3作については、特にその傾向が顕著であると思います。サマーウォーズは、キャラクターの層の浅さ、プロットが過去作のデジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲームの流用である点。おおかみこどもは、2人の子供の生き方の対比が、結局人間側の登場人物に物語上の力点が集中しているために意味をなさない点。バケモノの子は、後半の展開の観念性の高さから生じる寓意性が、最後の最後の着地で台無しになり、イノセントの消失と言うテーマがもろくも崩れ去ってしまった点が、大まかな問題点だと思っています。彼が、ポスト宮崎駿と言われているのは、ある種「国民的」であり、お行儀のよいアニメーションを作れる作り手としての面を指しているのでしょうが、前述したように、宮崎駿は決して国民的なアニメーションとは言えないようなテーマを扱っています。つまり、細田守宮崎駿性は作画のキャッチーさ以外ないのではないでしょうか細田守がポスト宮崎駿として挙げられるのにはいささか不満ですが、最新作の「未来のミライ」もどんな作品なのか、気になる面はあります。彼がいつか化ける日が来るのか、神妙に待ちたいと思います。

世界の片隅で、生を肯定した人間賛歌この世界の片隅に

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この作品は、日本アニメ史に残る、それどころか、日本映画史に残るレベルでの大傑作であることはみなさんもご存じでしょう。僕のオールタイムベストのうちの一本でもあります。改めてこの作品を説明するならば、原作の絵のタッチを完璧に再現した温かみのある作画や、徹底的にリサーチを重ね、歩いている通行人一人ひとりが実在する時代考証の正確さ。それによって、初めて70年前の生活がリアルに感じることが出来ました。そして、時代に翻弄された一人の女性、すずが抱いていたかすかな幻想が戦争によって踏みにじられ、無垢な少女が否応なく過酷な現実を直視せざるを得なくなる。これぞ、「イノセントの消失」です。彼女が右手と晴美を失うという展開もこれに該当します。この展開の後、急に画面がゆがんだような作画になりますが、彼女の内面から見た世界のゆらぎを象徴したシーンです。原作だと本当に左手で書いているというのですから凄いものです。そして、この物語は最終的に、現実を生きることを肯定してくれます。自らの手で描く絵と言う幻想でしか現実に対抗できなかったすずは、右手を失ったことによって、体で現実に向き合い、周作と喧嘩をしたり、世界に対して声を上げて慟哭するようになります。そして、彼女は多大なる代償を乗り越えて、この世界の片隅で周りの人たちの「笑顔の入れ物」になることを選びます。それこそが、70年後の世界を生きる我々の心に確かに響く、「生の肯定」なのです。 さて、次は海外の長編アニメーションについて論じていきます。

ディズニー・ピクサーの3DCGアニメーション 在りのままの世界を描き出す作品たち

ディズニーといえば、これまた全世界的な映画会社です。主力のアニメーションにくわえ、スターウォーズなどと言ったドル箱シリーズをサブウェポンとして所持しているとてつもない会社です。さて、ディズニーと言えばアニメーションですが、その中でもプリンセスストーリーが伝統のシリーズです。ですが、今日的な価値観で往年のディズニー作品を観返すと、いささか不自然に感じられてしまう部分もあります。それらの点を、ここ最近のディズニープリンセス物は解消しようと努めてきました。その中でも僕が最も好きなのは「塔の上のラプンツェル」です。前作「プリンセスと魔法のキス」から始まった「異性愛の成就が物語の結末ではない」「ポリティカリーコレクトに配慮したキャラクター描写」と言った要素が次作の『アナと雪の女王』よりも優れていると感じました。最近は、それ以外の3Dアニメーション部門が好調です。「シュガーラッシュ」に始まり「ベイマックス」「ズートピア」と言った傑作を連発しています。

そしてピクサーですが、「イノセントの消失」というテーマに近い作品を作っているのはこっちのほうだったりします。ピクサー作品の特徴として、作り手の等身大で作品を作っているところが挙げられます。「トイストーリー」ならば、子供を喜ばせる職人仕事としておもちゃを描きましたし、「モンスターズインク」は子供が出来てあたふたする父親の話です。その中でも、「イノセントの消失」に最も近いのは「インサイドヘット」でしょう。12歳の心のバランスが崩れた少女の頭の中を映像化するという内容ですが、これも監督の実体験が元になっています。そして、この映画に出てくる登場人物の中でも、やはりビンボンというキャラクターが辿る結末には号泣してしまいました。彼は、全ての一人っ子、空想家に送るレクイエム。非常に普遍的な感動をもたらしてくれます。

さて、ここまでは大手のスタジオの作品をご紹介していましたが、マイナーめなスタジオの作品をご紹介します

物語を物語る意義 「KUBO クボ 二本の弦の秘密」

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僕の2017年ベスト1の作品です。この作品は、ストップモーションアニメーションで作られています。3秒を作るのに1週間はかかったといわれています。ですが、それに見合うだけの圧倒的なアニメーションの迫力と「生きている」キャラクターに溢れています。クボ然り、サルの母性と厳しさを併せ持ったキャラクター。クワガタの抜けているものの、決めるときはビシッと決めるかっこよさのバランスが、とてもすてきだと思いました。敵方である月の帝や闇の姉妹の愛憎入り混じる屈折した感情表現も素晴らしかったですし、なによりも、「人はなぜ物語を必要とするのか」というメインテーマが行き着く着地としてはあまりにも見事な落ちのつけ方。そしてラストの圧倒的にエモいシークエンスの美しさ。徹底的にリサーチされた日本描写が、ここにつながっています。ここまで感受性を刺激された作品もそうそうないです。非常に素晴らしい傑作。ぜひ皆さん観てください。

あとがき

ここまで書いてきて、自分でも今まで挙げてきた作品のほぼすべてに「イノセントの消失」が作品の要素として含まれていることに驚いています。やはり、元来子供向けとされてきたアニメと言うメディアの反動として、幼年期の終りと言う物語構造が志向されるのではないのでしょうか。そのような作家性をも包括するテーマが存在するのは興味深いことです。以上で、この駄話を終えたいと思います。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

アイデンティティーの消失の果てに 「ブレードランナー2049」

 

今回は、自分の琴線にダイレクトに引っかかった映画に出会い、是非とも文章を書きたいと思ったので、記事を書きたいと思います。僕がこのブログでもたびたび書いてきた「アイデンティティー」についての映画でもありました。過去の記事についてはこちらのリンクからご覧ください。

それでは本文に移りたいと思います。

 

 

注意 今回紹介する作品は、ソフト化されていない新作の上、ネタバレ厳禁な映画となっています。未見の人がこの記事を回覧することを想定していませんので、ご注意を。

 

 

 

不可能を可能にしてしまった映画 「ブレードランナー2049」

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http://saku-ara.com/archives/3765

 2049年遺伝子工学によって誕生したレプリカントはさらに進化を遂げ、より人間に近づいていた。一方で、旧型モデルのレプリカントは人間にとって代わろうとするなど、危険視されて排除されていた。その排除の役目を担うのは、新型レプリカントであり、彼らはブレードランナーと呼ばれた。Kは、LAPDのためブレードランナーとして忠実に働き、古いモデルのレプリカントを逮捕・抹殺していた。  Kは任務の中で、「子供を出産した女性レプリカント」の遺体を発見する。Kの上司は、その事実にショックを受け、世界の秩序を守るために子供の処分をKに命じる。捜査の中で、Kは自分に幼少期の記憶があることに気づく。そして、自分こそがレプリカントが産んだ子供ではないかと考え始める。そして、ついに彼は子供の父親である元ブレードランナー「リック・デッカード」に出会うのだった。

 

僕はこの映画 絶対に失敗すると思っていました。なぜならば、この映画は、「ブレードランナー」の続編だからです。ブレードランナーを一度でも観たことのある人の内100人中100人が、続編と言う企画が成功するとは答えないでしょう。あまりにも前作の存在は巨大であり、その続編ともなると、出来が危ぶまれていました。しかし、やってくれました。ドゥニヴィルヌーヴ監督は見事に成し遂げたのです。まさかここまで感情を揺さぶられるようなエモーショナルな映画になっているとは思いませんでした。では、具体的な内容の話をしていきます。

 

1 Kと言う男が抱えるもの

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まず、この映画を語るうえで外せないのが、主人公であるKのキャラクターでしょう。

彼はネクサス9型でありながら、ブレードランナーとして同族を殺す仕事をしている男です。しかし人間達からは蔑まれ、友達はおらず、自宅のドアにも悪意ある落書きがされている有様でした。彼は徹底して「孤独」を抱えたキャラクターです。そんな男をライアンゴズリングに演じさせたのが、まず何よりも素晴らしい点です。ライアンゴズリングは「ハーフネルソン」「ラースと、その彼女」「ドライヴ」などで「本質的には孤独である男」を演じてきました。今回のKも、その系譜に連なる役であると思います。Kは、サッパーと言うレプリカントを「解任」する任務の途中に発見した子供を産んだ形跡のあるレプリカントの遺体と、その子供が預けられた孤児院で、自分が元々持っていた木馬を隠した記憶と完全に一致した情景を見て、自分こそがレプリカントと人間との子供であると感じ始めます。その真相を確かめるべく、30年前に逃亡したブレードランナー デッカードのいるラスベガスへと向かいます。Kと言う男は孤独だといいましたが、彼を唯一理解し、健気な愛情を注いでくれるのは、ホログラムのジョイという存在です。

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彼女を演じるアナ・デ・アルマスは、この映画で世界中の観客を虜にしたことでしょう。かくいう私もその一人です。孤独な男をたった一人理解してくれる女の子も、プログラムされた愛情であり、実体はなく、決して交じり合えないという残酷さ。彼女が何とか実体を得ようとして、娼婦の女の子と自分を同期させてまでKと交わろうとするシーンは切なくて泣いてしまいました。しかし、彼女が「死」という一点で人間と同一になり、Kの孤独な旅路に同行します。ですが、ここからKの不幸の連鎖が始まります。レプリカントの記憶を作る技師に会いに行き、自分の記憶を判定してもらいますが、木馬の記憶も、実は作られた記憶であることが判明します。さらに、デッカードに会いに行ったは良いものの、敵の尾行にあっており、デッカードも連れ去られた挙句、ジョイを失ってしまいます。ここまででも十分に不幸な目に合っていますが、これが最後ではありません。これを含めた物語の最終盤の部分は後述します。次は、デッカードを含む残りのキャラクターについてです。

2「愛」を抱えたキャラクターたち

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前作でレプリカントのレイチェルと共に逃亡したデッカード。30年後の彼は、放射能渦巻くラスベガスで隠遁生活を送っていました。彼は、レイチェルとの間に子供を授かることが出来ました。ですが、レイチェルは子供を産むと同時に死亡。当局に追われる可能性があったために、出産に立ち会うこともなく、子供と生き別れになり、一人孤独に生きることを選んだのです。「誰かを愛するためには、時に他人にならなければならない。」彼の選択はひとえに、レイチェルへの愛のためでした。だからこそ、ウォレスによって作られた30年前の姿を完全に再現したレイチェルを目の前にしても「彼女の瞳は緑だった」と言って拒否します。彼によって自分たちの愛は仕組まれたものではないかとと問いを投げかけられても、彼はブレません。愛を貫き通した男として、非常に完成されていました。

 

レプリカントを製造するウォレス社の社長。ウォレスは、創造主であり、神を目指す男として描かれています。命を生かすも殺すも自由な彼は、自らの作ったレプリカントを「天使」と呼びます。このような点も含め、聖書的なモチーフが多いです。「悪い天使がいた」と彼は言いますが、これは前作での最重要キャラクター「ロイ・バッティ」の事です。「失楽園」における創造主たる神を裏切った大天使ルシファーです。それに対し、忠臣のような役割を果たすのが、ネクサス9型の殺人レプリカント ラヴです。

彼女はウォレスを愛する大天使の役割を果たします。彼女は人を殺すときに必ず涙を流します。これも、共感性が備わったネクサス9型ならではの特徴と言えるでしょう。

このように、この映画の登場人物は、それぞれが「愛」を抱えています。それがプログラムされていた物だとしても、人を愛する気持ちに、優劣はありません。人間かレプリカントか。その違いはもはや存在しないといっていいでしょう。大事なのは、どう生きるか。人と機械の差は、そのようにして判断されるのではないのでしょうか。では、最終盤の展開について言及していきます。

3 大義のために死ねるか? 他人のために死ねるか? 

レプリカントによるレジスタンス組織に救出されたK 彼はそこで、信じがたい真実を聞くことになります。レイチェルの子供の性別は女の子であり、男の子ではないということです。自分がその子供だと信じてきた彼の希望は、無残にも打ち砕かれてしまいます。しかしそれでも、彼は自分がレプリカント以上の存在になるために、「大義のための死」を成そうとします。ラヴによってオフワールド(外宇宙)に連れて行かれそうになっていたデッカードを救出しようとします。彼はレジスタンスに、デッカードを殺すよう指示を受けていましたが、殺すことはせず、レイチェルの娘であるレプリカントの記憶技師、アナ・ステリンの元へデッカードを連れて行きます。そこで彼は、自分の偽造された記憶である木馬を、デッカードへと渡します。それによって、自分と言う存在がデッカードの記憶の中に存在し続けることを願ったのでしょう。Kは、ラヴとの戦いで負った傷のせいで、地面に倒れこんでしまいます。そこでは雪が降っていました。その雪を見つめながら、彼は死んでいきます。前作のブレードランナーが雨の映画だとしたら、今作はまさしく雪の映画でしょう。Kと言う男の生き様が、雪によって象徴されています。このシーンで流れる音楽は、前作においてロイ・バッティが雨の中で独白をする名シーンの音楽がそのまま使われています。30年前に「愛」に目覚めたレプリカントに助けられたデッカード。そしてまた、彼は父と娘の「愛」のために戦ったレプリカントによって再び命を救われたのです。このラストシーンは、非常に感動しました。それまで存在を否定されてきた男が、誰かのためにその命をささげる。僕の大好きな物語構造です。世界から切り離されている男の右往左往。これは遠い未来の話ではなく、今現在のSNS時代の人間の象徴ともいえます。コミュニケーションと言う概念が希薄になっているこの時代、誰かのために、愛のために生きることが本当の意味で出来る人間が果たして存在するのでしょうか。人間の本質とはなんなのか?「愛」である。この映画はそのメッセージを、儚くも力強く、我々に伝えてくれたような気がします。

4 アンドロイドは人間の夢を見たか?

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は今作の物語は「ピノキオ」であるとインタビューで語っています。どちらも人間になろうとする男の物語です。それに加えて、僕は同じくピノキオを元にした作品である「A.I」も連想しました。主人公がどんどん不幸な目にあって行くのも似ていますし、「愛」の物語である点も共通しています。主人公が辿る結末も似ています。ブレードランナーと言う映画の本質は、生命体が持つ感情を巡る話だと思っているので、この点をさらにブラッシュアップしてきたことをうれしく思っています。前作では感情の中心が主人公ではないという問題点?がありましたが、今作はしっかりと主人公に感情移入できます。不可能だと思われた続編を、こんなヒューマニズムあふれる物語に仕上げるなんて、僕は思ってもみませんでした。非常に素晴らしい傑作をありがとう、ドゥニ・ヴィルヌーヴ

「仮面ライダークウガ」と「ダークナイト」の本質は、同じである。

今回は、ふとした会話から生まれた記事です。

以前このような記事を書きましたが、今回もこの記事に近いような内容になると思います。作品を貶す内容である訳ではありませんが、本質的な「やりたい事」がこの二本は共通しています。それでは、本文をどうぞ

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

時代をゼロから始めよう 「仮面ライダークウガ

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98

西暦2000年。長野県山中の九郎ヶ岳で謎の遺跡が発掘されたが、棺の蓋を開けたことで目覚めた謎の存在によって、夏目幸吉教授らの調査団は全滅させられてしまう。捜査に当たった長野県警刑事・一条薫は五代雄介と名乗る冒険家の青年と出会う。雄介はそこで見せてもらった証拠品のベルト状の遺物から、戦士のイメージを感じ取る。

ズ・グムン・バに遭遇した雄介は、咄嗟の判断でベルトを装着して戦士クウガに変身した。そして、人々の笑顔を守るために怪人たちと戦うことを決意する雄介。

以後、クウガと怪人たち=グロンギは「未確認生命体」と呼ばれ、人々に認知されていく。

 

 平成ライダーシリーズ第一作となったこの作品。この作品と聞いて思い出すのはなんでしょうか。既存の作品に比べても、格段に現実に近い警察描写。気合の入ったバイクアクション。主人公五代雄介や周りを取り巻くキャラクターたちの魅力。殺人ゲームを楽しむ古代文明が敵という斬新さ。このあたりでしょうか。ですが、個人的にこの仮面ライダークウガという作品に思う事として、この作品の実態は非常にクラシカルな昭和特撮であると思っています。つまり、「斬新さ」と「センスオブワンダー」は似て非なるものだということです。個人的に、平成ライダー龍騎からが本番だと思っています。何故かと言えば、それまでの仮面ライダーでは絶対になしえなかった重層的かつ社会性を持った物語と、仮面ライダーだからこそ描けるキャラクター性を真の意味で両立できたのはこの作品からであると思っているからです。僕はこういう作品が見たいし、積極的にプッシュしたい。そう思わせるだけの何かが、個人的にはクウガと言う作品には薄かったように思えました。さて、クウガより8年が経った2008年。アメリカで一本の作品が公開されます。それは、今まで軽く扱われてきたアメリカンコミックの実写化と言う枠を超えて、一本の傑作 マスターピースとして、アカデミー賞のルールすら変えうるような作品だったのです。

そのしかめっ面はなんだ? 「ダークナイト

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バットマンが活躍するゴッサムシティでは、それまで町に蔓延っていた犯罪者たちが夜に怯えて暮らしていた。しかし、依然として町から汚職や犯罪が一掃されたわけではない。新任検事のハービーはゴードンやバットマンと共にマフィアの掃討に当たる。追い詰められたマフィアは、狂人のジョーカーにハービーとバットマンの抹殺を依頼する。

 

映画ファンやアメコミファンにはもはや説明不要の作品です。この作品の何が凄いのか。まず、2008年のブロックバスター超大作とは思えないようなアメリカンニューシネマ的なストーリーが挙げられます。人間の善意を信じようと戦うバットマンことブルースウェイン。人間が信じているものを心の底からグラつかせようと誘惑するサタン的な悪役のジョーカー この二人の対決は、「ダーティーハリー」におけるハリーとスコルピオにも通じます。善と悪 警察的な法の執行と自警行為 復讐の是非 といった、非常に複雑な対比によるテーマ性を持ったストーリー性や、劇映画としては初めてIMAXカメラを使用したことによる画面のルックの素晴らしさ。ジョーカー役のヒースレジャーが文字通り命をかけて演じたジョーカーというキャラクターの凄まじさが、この作品を日本以外の国では大ヒットへと導いたのだと思います。前述の仮面ライダークウガとの共通点ですが、どちらの作品も、「ヒーローという存在の現代的な再定義と象徴化」を行っている作品だと感じました。既存のヒーロー物の常識、お約束に縛られない作劇ではありますが、最終的なヒーロー的なる存在の落としどころは、むしろクラシカルなものであると思います。そして、この2本を評するときに、「リアル」という表現が使われることが多いと思いますが、僕は違うと思います。なぜならば、この2つの作品の目的は前述したとおり「象徴化」なのであって「リアル化」ではないのです。そもそもこの表現を使って評している人たちは「リアル」と「リアリズム」をはき違えているのではないのでしょうか。あくまでもフィクション作品に求められているのは現実世界とリンクするようなメタファー 比喩的表現だと思っているので、僕は「リアル」であることが作品に必ずしも良い影響を及ぼすとは考えていません。そのうえで、我々に問題提起を促すようなクウガダークナイトのような作品(前述のとおりクウガはあくまでも踏み台だと考えていますが)が僕は好きなのです。

これで今回の文を終わります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

僕の「ヒーロー論」的な何かを綴ってみる。

今回は、以前書いたこの記事に近い立ち位置の記事です。

slyuroder.hatenablog.com

所謂、特撮、アメコミなどにおけるヒーロー的なるものについての個人的な思想表明として、今回の記事は書きたいと思います。それでは本文をどうぞ。

 

注意 今回の記事は、筆者個人の好みが色濃く出た記事になります。読んでいて違和感が生じることがあるかと思いますが、ご了承ください。

また、今回の記事では、本来特撮といったヒーロー物は「子供向け」などと言った類の論調は完全に扱いません。何故ならば、この記事を書いている人間は子供の視点ではヒーロー物を観れませんし、こういったジャンルはもはや子供のものだけではないと思っています。この記事も子供は見ないことを前提に書きます。

 

 

 

1 ヒーローとは、「異質」であり「孤独」であるべきか?

まず、僕の好きなタイプのヒーロー的なる存在の1つのパターンとして、類型的な言い方をすれば、「孤独を背負った人間」もっと極端な言い方をすれば「世間から見れば決定的に異質な存在」というバックボーンを抱えたような人物が好きなのです。つまり、仮に何らかの超能力を発揮できるような超人が現れたとして、その存在は、普通の人間から見たら、神か悪魔かは紙一重でしょう。仮面ライダーと言う存在を突き詰めてしまえば、飛蝗の怪人でしかないのです。バットマンも、客観的に見てしまえば、蝙蝠のコスプレをした精神異常者です。そしてその存在は決して代替不可であり、同じような境遇を抱えた人物は、むしろ戦うべき敵にこそ存在する。石ノ森章太郎イズムこそが、僕の理想のうちの1つだといえるでしょう。このパターンが好きなもう一つの理由として、ヒーローの心理描写が必然的に多くなるから という点もあります。すなわち、葛藤を普通のドラマに比べ描きやすいということです。自らと同じような存在を裏切り、人間側について戦うものの、その人間からも決して好意的には見られていないという苦悩とジレンマ。このようなドラマこそが、このパターンの魅力だといえるでしょう。では、次は僕が個人的に思っていたことについて書いていきます

 

2 ヒーローは「模範的」であるべきか

所謂「真面目」「人格者」「非の打ちどころの無いような好青年」的なキャラクターは、特に特撮には顕著なキャラクター設定と言えます。これは僕の好みですが、そういったキャラクターに僕はあまり魅力を感じません。何故ならば、そういったキャラクターたちは、その主人公が持つヒロイズム性を強調するためにそのような性格付けをされている。つまり、作り手側がドラマを描きやすいからそうしているだけに過ぎないのです。僕は、「ヒーローその物のかっこよさ」よりも「ヒーロー物という土台、設定を使って如何に様々なことを表現できるか」と言う方面のほうに関心があるので、こういったことを思うのはある種当然と言えます。僕が言いたいことを的確に表した言葉を映画秘宝 2017年10月号に掲載されているポールヴァ―ホーヴェン監督インタビューより引用します。

 

簡単に理解できるキャラがすぐに予想のつく行動を取る映画を観るということは、何も考えずに済むということだ。お手軽な「理解」や「共感」は思考停止に結びつく。その結果、物語の文脈を考えることもなくなってしまうし、キャラの行動原理を深く追うこともしなくなってしまう。私は自分の映画を観る観客に作品をもっと深く味わってほしいと思っている。登場人物に「共感」できないということは、その作品が面白いということと関係がない。

 

 

 

 結局の所、道徳の教科書のような主人公を見たところで、僕は何も感じないのです。ここで僕が好きなヒーロー的なる存在の具体例を出しておきましょう。「ウォッチメン」の「ロールシャッハ」です。

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https://www30.atwiki.jp/niconicomugen/pages/2076.html

 

「キーン条例」によりヒーロー活動が禁止されたアメリカ合衆国、ニューヨークにおいて、
違法に自警活動を続け、ストリートで犯罪者を叩き潰している、たった一人のヒーロー。
……それがロールシャッハである。
条例制定時には、連続レイプ魔の死体に「断る!」と手紙を添えて警察署の前に放置したため、
殺人容疑をかけられて警察には追われているし、その暴力的な活動方針から一般市民にも疎まれている。
設定資料によると、この他にも正当防衛による殺人が五件、そうでない殺人がもう一件あるという。

性格は冷酷かつ独善的な右翼主義者で、基本的に他人と馴れ合う事は無い。
素顔は常に無表情で、うねうねと不気味に蠢くマスクの模様こそがロールシャッハの顔だと言える。
悲惨な子供時代から唯一小さい子供にだけは優しさを見せるが、それも相手が不良でなければの話である。

 

良くも悪くも善悪の妥協を許さない暴力的な人間であり、一般の範疇からは狂人と呼ばれるに違いない男。
その精神状態は、診察した精神科医が影響を受け、逆に狂ってしまうほどである。深淵を見つめるものは……。

 このようなキャラクターを、原作者のアランムーアはこう評しています。

 「彼をモラルの価値が地に落ちた時代を行く聖戦士と見るか、
 無差別に殺害を繰り返すサイコキラーと見るかは、読者の自由だ」 

 僕は完全に前者です。そもそもこのウォッチメンと言う作品自体が、現実にヒーローが存在したらどうなるか。を徹底的に追求した作品なので、まさしく僕の好みなのです。その中でもこのロールシャッハと言うキャラクターは、物語の狂言回しとして、非常に印象的なキャラクターです。彼は、自らが信じる「正義」のためなら、神に楯突くことも厭わないような人物です。その、絶対に妥協しない精神性こそが、僕がこのキャラクターに惚れ込んだ所以なのです。つまり、僕はヒーロー物に限らず、作品の登場人物を精神的な面で評価する傾向があります。これはあくまでも1例です。昭和特撮の主人公が好きな人を否定する意図はありません。唯、僕はそんな主人公を無条件に肯定するような絶対的な風潮には絶対にノれません。

では、前述したアランムーア氏の言葉を持って、この記事を終わらせたいと思います。

 「俺たちは実は凄い力を持っているんだが、ソファに座ってビール片手にテレビを見ているだけだ。
 スーパーパワーがあったって、やっぱりソファに座ってビール片手にテレビを見てるだけだろう。
 馬鹿がコスチュームを着たところで、変な格好のおかしな奴が1人増えるだけだ。
 ヒーローってのはスーパーパワーがあるとか、コスチュームを着てるって事じゃない。 
 自らの意志でもって世界を良くしようと戦う人々のことを言うんだ 」 

 ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

自分が好きな「恋愛映画」について 

今回は、自分の好きな恋愛映画についてまとめたいと思います。最近僕は、どれも質が良い恋愛映画に出会ってきました。そのどれもが、恋愛の厳しい面を浮き彫りにするような胸が痛む傑作でした。それでは本文をどうぞ

 

 注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 2017年10月10日 (500)日のサマーについての記事を追加

 

 

 

気持ちが違えば、世界も変わる「エターナルサンシャイン」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3

もうすぐバレンタインという季節。平凡な男ジョエルは、恋人クレメンタインと喧嘩をしてしまう。何とか仲直りしようとプレゼントを買って彼女の働く本屋に行くが、クレメンタインは彼を知らないかのように扱い、目の前でほかの男といちゃつく始末。ジョエルはひどいショックを受ける。やがて彼はクレメンタインが記憶を消す手術を受けたことを知る。苦しんだ末、ジョエルもクレムの記憶を消し去る手術を受けることを決心。手術を受けながら、ジョエルはクレメンタインとの思い出をさまよい、やがて無意識下で手術に抵抗し始める。

 この映画の脚本を書いたのは「マルコヴィッチの穴」や「アダプテーション」で注目を集め、「脳内ニューヨーク」や「アノマリサ」では監督も務める奇才、チャーリーカウフマン。それだけに、非常に難解な構造と、脳内の記憶の映像化という設定らしい、どこかおかしい悪夢的世界が描かれます。ですが、難しい映画化と言われれば決してそうではなく、とても普遍的な感動を我々に与えてくれます。当たり前ですが、人付き合いと言うものは最高の状態がいつまでも続くわけではありません。絶対に最悪の状態はやってきます。では、どうすれば恋愛は終わることなく続くのでしょうか。この作品が提示した答えは「今のつらい出来事だけでなく、過去を振り返ろう。これからうまくいかないかもしれないけれど、楽しかった思い出は本物なのだから、やり直すことはできるんじゃないか?」と言うものだと思います。彼女との記憶を過去に向けて遡っていくジョエルの姿は、ある種の地獄めぐりでもあり、人生を生きなおすことでもあります。

だからこそ、どんどん記憶から消えていく彼女に思いを馳せ、「この記憶だけは消さないでくれ」と懇願するジョエルの姿。記憶が消えてしまったにも拘らず、再びめぐり合ってしまう彼らの姿は、非常に胸を打ちます。この映画が恋愛映画の古典として認知されているのは、このようなエモイスティックな感動であると思います。では、この映画をポップでオシャレに描いたらどうなるのでしょうか。次に紹介する作品は、まさしくそんな作品です。

一瞬の愛、夢、笑い声 「(500)日のサマー」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/(500)%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC

LAで、グリーティングカード会社で働いているトムは、地味で冴えない毎日を送る青年。ロマンティックな出会いを期待するも、大学で建築を学んでいた彼にはグリーティングカード会社での仕事はつまらなくて、職場にはおばさんばかり。

そんな彼はある日、秘書として職場にやってきたサマーに一目惚れしてしまう。出会いから4日目、トムが偶然サマーと同じエレベーターに乗り合わせたとき、ふいにサマーは「わたしもザ・スミスが好き」と声をかける。そしてそこから二人の交流が始まる。ストーリーはトムの空想と、サマーとの実際の関係を絡めてどんどん進んでいく。

会社のパーティーの帰りがけに、トムはサマーに好意を寄せていることを告白するのだが、サマーは「友達になりましょう」と言うだけであった。34日目、イケアで新婚夫婦ごっこをしたり、ランチピクニックをしたりと徐々に親密になっていく二人だが、期待するトムに対してサマーに「真剣に付き合う気はないの」と言われてしまう。そしてトムは、不本意ながらも「気軽な関係でいいよ」と妥協してしまう。

そして109日目、サマーの部屋に招き入れられたトムは、サマーとの関係が一気に進展したと感じるのだが……。

 

個人的には、この映画のバランスがこの記事で紹介する映画の中で、最も好みです。この映画は、脚本家の実体験が元になっています。主人公のトムが、サマーと過ごした500日間をランダムに見せていくという、ある種ミステリー的な構造が、現実における恋愛についての記憶の思い出し方と非常にマッチしています。そして、トムは「運命の人」と言う概念を信じる恋に恋する青年。対してサマーは「永遠の愛など無い」と言い切ってしまうリアリスト。この2人の関係性はとても魅力的でもあり、切なくもあります。監督はMV出身で、この映画が長編初監督作のマーク・ウェブ。この映画も、随所にMV的な画作りをしているシーンがあります。特にそれが顕著なのが、トムがサマーと初めて性行為をした後の翌日の朝。うれしくてしょうがない彼は、町の人たちとともに、笑顔でダンスするという、ミュージカル的なシーンがあります。このシーンは、彼の心の中がバラ色になったことを視覚的に表現している見事なシーンですが、非常にMV的な撮り方をしています。マーク・ウェブ監督は次作の「アメイジングスパイダーマン」及びその続編でも、主人公とその彼女の関係性や、MV的な画作りをそのまま発揮しています。スパイダーマンと言うキャラクターの青春面を強調した映画として、よくできた映画です。「(500)日のサマー」のラスト付近のやりとりは、非常に秀逸です。トムとサマーが最初に抱えていた恋愛観が完全に逆転した後、お互いが違う道を歩きだし、新しい「1日目」が始まってゆく。非常に綺麗な、落語的な落ちだと思います。オールタイムベスト更新レベルで大好きな映画です。未見の方は、ぜひ観てみてください。さて、次に紹介する映画は、この映画を「陽」とすると間違いなく「陰」に属する作品です。

 

君と僕 2人がいる限り「ブルーバレンタイン

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  結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。

努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった……

 

この映画が、数ある恋愛映画の中でも、何故最も強烈で、トラウマになるほどの衝撃を受けるような傑作と言われているのか。それは、この映画は「結婚7年目の倦怠期の夫婦が、ついに離婚してしまう2日間」と「2人が出会い、恋に落ち、結婚するまでの数週間」を交互に見せていくという、胸を抉られるような構成だからです。しかし、どちらかに問題があったから別れてしまうといった安直な物ではなく、どちらにも美点があり、魅力的な人物なのだが、その裏返しとして、欠点も存在する。といった、一方的な結論を導き出せないような人物造形が、これ以前の恋愛映画とは決定的に違う点であり、この作品がここまで語り継がれる所以なのです。

http://www.outsideintokyo.jp/j/review/derekcianfrance/

離婚した両親を親に持つデレク・シアンフランス監督が子どもの頃に最も恐れていたのは、"両親の離婚"と"核戦争"だったという。前者に関しては、それが正に本作のテーマとなっているわけだが、後者に関しては、まるで"核シェルター"のように閉ざされた"未来の部屋"の造形に反映されている。そのことは、"核の恐怖"が現実のものとなってしまった3.11以降、隔離される"ゾーン"を生み出してしまった私たちの暗い現実と奇妙に呼応する。

共同脚本を務めた3人(デレク・シアンフランス監督、ジョーイ・カーティス、カミ・デラヴィーン)の内2人が、両親の離婚を経験しているという本作の物語には、彼らの実体験が濃厚に暗い影を落としてはいるものの、行き詰まってしまった"現在"と無邪気なロマンスに満ちていた"過去"をほぼ同等のバランスで扱っているところに、映画作家のロマンティックな資質が顕われている。

 

 この映画をより切なくしているポイントとして、EDが挙げられます。2つのパートの間に起こった結婚生活の思い出が、花火となって打ちあがる、非常にロマンティックなEDです。離婚と結婚の瞬間が交差するラストの後にこんなEDを持ってくるとは、どこまで意地悪なのでしょうか。そんな残酷さも含めて、僕はこの映画が大好きです。

 

夢追い人に乾杯を「ラ・ラ・ランド

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夢を叶えたい人々が集まる街、ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミアは女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末の店で、あるピアニストの演奏に魅せられる。彼の名はセブ(セバスチャン)、いつか自分の店を持ち、大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合う。しかし、セブが店の資金作りのために入ったバンドが成功したことから、二人の心はすれ違いはじめる…

 

2017年でも屈指の話題作であり、一般層にも大ヒットしたミュージカル映画です。

監督は「セッション」で注目された新星デイミアン・チャゼル 主演はエマ・ストーンライアン・ゴズリングの黄金コンビ。アカデミー賞では最多6部門受賞と、話題に事欠かない作品です。この映画、素晴らしいシーンがたくさんあります。オープニングの高速道路での超絶ワンカットシーン。丘の上でダンスするミアとセブ。オーディションでの鬼気迫るミアの歌声等々ありますが、僕が最も心を動かされたのは、やはりラスト15分の「もしも」のシーンです。あそこで完全にやられてしまいました。「マルホランド・ドライブ」的な走馬灯演出は、非常に幻想的で、「巴里のアメリカ人」「シェルブールの雨傘」といった、この映画のもとになったミュージカル映画のエッセンスが漂う名シーンであると思います。そして、別れた2人が再び出会い、また笑顔でそれぞれの人生を歩み始める。あの笑顔一発で涙腺決壊です。ハリウッドが本気で「セカイ系」を作ったらどうなるか。それを教えてくれた気がします。

まとめ

この記事における作品のサブタイトルは、どれも劇中に流れる音楽の歌詞から引用しています。ここまでで紹介した4本の映画の内、500日のサマーを除く3本に共通する点として、客観的には悲劇的な結末を迎えてしまう恋愛を扱っていますが、では2人は出会わなければ良かったのか?と言われれば違うと思います。なぜならば、2人での思い出はつらい思い出だけではないからです。紹介した4本の映画は、どれもその側面をきっちりと描いています。個人的には、「恋愛映画」とは、恋愛とは何か?と言うことを問い直す物であると思います。その面から見ても、批評として機能していなければ意味がないのです。男女がイチャイチャするだけでは、ドラマとして不十分であり、全く心に残りません。やはり僕はぬるま湯よりも刺激的で、自分の人生を顧みて、いつまでも心に残るような体験を求めているのでしょう。ハードコアで刺激的な作品こそが、僕の理想なのです。では、これでこの駄文を終わりたいと思います。

仮面ライダードライブとは、ブレードランナーの安いパロディである。

 

今回は、仮面ライダードライブと言う作品が、いかにブレードランナーというSF映画の古典にいかに影響を受けたか。もといパクったかを書いていきます。自分の周りではなぜか今まで指摘されていなかったのが驚きですが、見れば見るほどブレードランナーがいかに偉大か。及びドライブがいかに愛の無いオマージュの集積で出来ているかが見えてきます。それでは、本文をどうぞ。

 

注意 今回の記事は紹介する作品のネタバレが含まれていること以上に、仮面ライダードライブと言う作品のファンがこの記事をご覧になった場合、不愉快な感情を抱く可能性があります。回覧は自己責任でお願いします。

 

 

 なぜドライブは電気羊の夢を見るのか?

ブレードランナーに関しては、こちらの記事で書いたので、こちらを参照してください。

ですので、仮面ライダードライブという作品についての説明のみにします。

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96

西暦2014年。雨が降りしきるとある日、人類の滅亡を目論む謎の人工生命体「ロイミュード」が世界各地を襲撃した。ロイミュードの力によって周囲のあらゆるものが動きを鈍くされ、多くの人々が犠牲となった。後に周囲の動きが遅くなる現象は「重加速」や「どんより」、ロイミュード襲撃の出来事は「グローバルフリーズ」と呼ばれるようになった。その同時期、警視庁の刑事・泊進ノ介は同僚の早瀬明と共に爆破テロの犯人と交戦していたが、発生した重加速の影響で拳銃を誤射してしまい、その二次災害によって早瀬に重傷を負わせてしまう。同じ夜、巡査の詩島霧子は1体のロイミュードと遭遇して命の危機に陥るが、意志を持つミニカー「シフトカー」を使役して戦う仮面の戦士「仮面ライダープロトドライブ」に命を救われた。

それから半年後。怪奇事件担当の部署「特状課」に左遷された進ノ介は早瀬に重傷を負わせたという失態から無気力になり、サボっては同僚となった霧子によって部署に連れ戻される毎日を続けていた。そんなある日、人間が全身真っ赤になって意識を失うという殺人未遂事件が起こり、特状課は捜査に乗り出す。その捜査で進ノ介は人工知能を持ったベルト「ドライブドライバー(ベルトさん)」と、ベルトさんが使役するシフトカーに出会う。やがて人間を襲うロイミュードを発見した進ノ介は腰に着けていたベルトさんに変身を促され、シフトカーの力で戦う戦士・ドライブに変身し、ロイミュードを撃退した。その後、プロトドライブのことを知っていた霧子は進ノ介を秘密基地「ドライブピット」に案内し、ドライブのことは特状課にも漏らさないようにと告げる。やがて、プロトドライブが「仮面ライダー」と呼ばれていたことを知った進ノ介は、秘密の戦士「仮面ライダードライブ」として、ロイミュードとの戦いに身を投じる。

 まず、人工生命体が人類に反乱を起こすという基本のプロットは同じです。話の中心になる(プロット上のクリフハンガーとしての)幹部級の人数が6人と言う人数も一致しています(ただし、ブレードランナーは6人目のレプリカントは通常版では予算の都合で出演シーンをカットしたのにも関わらずポストプロダクションでセリフを修正しなかったために、矛盾が出る事態になりました。ファイナルカット版では修正されましたが、この矛盾が現在まで残るデッカードレプリカント説の発端になっています。)

それを、警察側の人間が討伐に打って出る。ということも同一(ここの主人公の設定部分の違いが個人的に一番根深い問題になっているのですが、後述します。)アンドロイドが創造主を殺す(ドライブでは逆にラスボスの位置に置いたことでブレードランナー的な命題が矮小化された物語となっている。)物語のクライマックスが雨の中でのアンドロイドのリーダー格による独白である点など、意識、無意識的にしろ、似ている部分は多岐にわたります。ですが、今回の仮面ライダードライブという作品ははっきり言って、ブレードランナーへの冒涜と言ってもいいでしょう。

まずブレードランナーの何が評価されたかと言えば、近未来の描写の凄まじさはもとより、ディストピアSFでありながらその実態はフィルムノワールであること。実物と寸分違わぬ複製品は実物と変わりないのではないのか?という非常にポストモダンなテーマ性が評価されたのです。フィルムノワールというジャンルが示す通り、主人公は体制側であるもののすでに引退状態であった殺し屋です。当然、自らの仕事に誇りなんて持っているはずはなく、自分の仕事に非常に悩む男として描写されていました。それに対して仮面ライダードライブの実態は、日本のドラマお得意の刑事ドラマ。主人公は左遷されたとはいえ、物語が進む推進力は、事件の解決と、自らの仕事の肯定からなるお気楽なもの。真の意味で体制側であり、模範的であるべき職業が主人公の物語と、ダークでシリアスなトーンで進む灰色の殺し屋の物語はそもそも非常に食い合わせが悪いものです。そんな仮面ライダードライブは、終盤になると、まさしくブレードランナーな展開になりますが、ロイミュードにも事情があり、彼らは人間と変わらないのではないかという問題提起を主人公である泊 進ノ介自身が積極的に行い、自らの論調が正しいことを証明しようとします。この点が最もダメな点で、ドライブ批判でよく上がりやすい部分ですが、仮にも警察官である主人公が、さんざん人類を手にかけてきた存在との和解を目指すという物語構造は、いささか不自然であるといえます。これが、日本の刑事ドラマとブレードランナーの食い合わせが悪いということです。ブレードランナーでは、主人公と敵が和解したという明示的な描写はなく、あくまでも、敵の行動によって主人公がその行動の先に見える本質に気付く。と言った塩梅です。さんざん殺し合いをした後に、主人公のリック・デッカードが敵のボスのロイ・バッティに命を救われます。彼らレプリカントは寿命が4年しかないため、どうにかして寿命を延ばそうとしていましたが、その願いは叶えられませんでした。ロイは「死」と言うものが間近に迫ったその瞬間、人間を助けるという「愛」に目覚めたのです。そして、雨が降りしきる中、僕がすべての映画のセリフの中で一番好きなセリフを呟くのです。

https://oriver.style/cinema/blade-runner-introduction-2/

「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。死ぬ時が来た。」
(原文:I’ve seen things you people wouldn’t believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain. Time to die.)

 彼が手に抱いた鳩がはばたく非常にニクい演出と共に、空は晴れ渡るのです。それに対し、ドライブでハートが雨の中独白する場面は、非常に唐突で、作り手側の自己満足が透けて見えます。こういう風に、オマージュそれ自体が目的化したオマージュほど、見ていてつまらないものはありません。オマージュをするならオマージュ元の作品のテーマ性や魂をきっちりと継承しつつ、その作品ならではの新たなテーマ性や魅力をきっちりと構築しなければ、意味など無いのです。その証拠が「GHOST IN THE SHELL」という作品の存在です。

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明らかにブレードランナー的な描写や問題意識を持っている作品なのに、最終的には、オリジナルとはまた違った、しかし非常に優れた物語構造へと着地します。オリジナルの猿真似などだれも望んでいない。その作品が真に後世に残るか否は、ほかの作品とは違う独自の魅力の要素で決まるのです。オマージュだけでは、歴史に埋もれるだけです。日本製エンターテイメントには、独自の魅力を構築するだけの発展性を、是非とも持ってほしいものです。

以上でこの文章を終わります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

2001年宇宙の旅の影響を考える part2 機動戦士ガンダムとの関係性

今回は、前回の記事の続きとなります。前回は、2001年宇宙の旅と言う作品を、同じく映画作品であるA.Iとインターステラーとの関連性を通じて振り返ってみました。今回は、あの「機動戦士ガンダム」との関係性について考えたいと思います。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

1 1stガンダムと2001年

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まず富野監督が2001年を認識しているかについてですが、これらの記事を読んでください

http://natalie.mu/eiga/news/154322

 そしてスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を引き合いに出し、「あの映画は名作と言われているし僕もたまに観返すけども、クソ面白くない。(一般の観客は)誰が観るかあんなの(笑)。映画として、僕は傑作と思ってません」と“富野節”をさく裂させ笑いを誘う場面も。「『2001年宇宙の旅』のデザインワークとか物語論は極めてユニークだけど、ビジネスになるのかっていうと話が違ってくる。あの作品でこれだけの場所(「ガンダム展」会場)は埋められませんからね」と語る。

http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2009-10-14-3

  『キネマ旬報』1999年10月上旬号・下旬号に、特集「140人の映画人が選んだ10本」が組まれております。
 2回に分けて、洋画・邦画別の特集なのですが、この140人の中に富野も入っております。

怒りの葡萄

 勝手にしやがれ

 灰とダイヤモンド

 去年マリエンバートで

 2001年宇宙の旅

 ラストエンペラー

 バベットの晩餐会

 アマデウス

 尼僧ヨアンナ

 ピアノレッスン

 と、絶賛ではないですが、決して無視しているわけではないことがわかります。これを踏まえたうえで、共通点を探していきたいと思います。

まず、前回の記事で、2001年は無重力描写が特徴的であると言いましたが、ご存じのとおり、この機動戦士ガンダムと言う作品は基本的に宇宙にキャラクターがいるときは無重力になっています。他の日本のSF、ロボットアニメでも、ここまできっちりと表現した例は少ないです。

次に、ストーリーの面。2001年のストーリーをおおざっぱに言えば、人間よりも高度に発展した精神的生命体との接触によって、人類が次なる進化のステップを踏み出す。

と言うものです。

機動戦士ガンダムは、人類がスペースコロニーへの宇宙移民を開始した世界で、スペースコロニーであったサイド3が地球連邦政府が強行した宇宙移民政策を棄民政策だとしジオン公国として独立。武力蜂起を起こし、既存の兵器とは全く異なる兵器、MSを開発。これに対し地球連邦は、戦局打開を目的に自らもMSをサイド7で開発する。ジオンによるサイド7襲撃によって、主人公であるアムロ・レイたちは、後に一年戦争と呼ばれる戦争に偶発的に巻き込まれることになります。そして、地球、宇宙を問わず、激戦地をめぐることによって、戦争という物や、極限状況におかれた人間がどうなるか。人類の革新と言うテーマが浮き彫りになっていく。 と言うものです。

ここで言いたいのは、機動戦士ガンダムという作品が、宇宙戦艦ヤマトを完全に超えたリアルSF描写及び商業主義的なビジネス性や、戦争に翻弄される人間を正面から描いて見せた。という点と同じくらい、リアルロボット物にはそぐわない概念「ニュータイプ」を通じて、2001年と同じく、人類の進化を描いたことこそが「カルト化」された要因であるということです。

主人公のアムロ・レイとライバルのシャア・アズナブルは共に、同じくニュータイプであるララァ・スンという少女に惹かれます。劇中で彼らは精神世界を通して、交信をしますが、これは、2001年でのボーマン船長が、モノリスとの対話によって、「スターチャイルド」へと進化する過程と同様です。外宇宙への進出が人類の進化であるという価値観は、60年代の米ソ間の宇宙開発競争を機に一般層へと浸透した概念であると思います。かつてはそんなことが明るい未来として肯定されてきました。しかし、環境問題の悪化や、繰り返される戦争によって、人類は暗い未来でしかリアルを感じられなくなってしまったと思います。今となっては、ガンダムというシリーズも、本当にただの商売道具になってしまいました。1stガンダムの精神性は、シリーズが続くごとに薄まって行きますが、それでも、いわゆる2001年のモチーフを入れ込んだ作品は、この後にもあります。それに軽く言及しておきます。

2 1st以後のガンダムにおける2001年イズム

まず宇宙世紀ですが、進化の果てに起きてしまった精神崩壊という結末のZはふさわしくないでしょう。ZZやF91、Vガンダムも2001年的とは言えません。逆襲のシャアは、どちらかといえば終盤の展開が2001年の続編「2010年宇宙の旅」に酷似してるので、当たらずとも遠からず。と言ったところでしょうか。この基準で言うと、2001年に近いようなことをやっているのはガンダムUCだったりします。特に、OVAで言うところのep7は、ほとんどそのまんまの描写があったりします。具体的に言えば、ネオ・ジオングユニコーンガンダムが、宇宙創成の瞬間まで時間をさかのぼるシーン。ここは完全にスターゲートのシーンを参考にしたと思われます。フル・フロンタルの魂が宇宙へと昇っていき、思念体となったララァ達に出迎えられるシーンも、精神生命体に導かれるボーマン船長のようです。ラストでバナージが人間とMSの境界線を越えた新たなる生命体へと一瞬なるのも、スターチャイルドへの進化が元でしょう。最後に人間であることへと着地する点が、違う点であると言えます。そういう点でもガンダムUCは、嫌いになれない作品です。1stガンダムをふまえた作品であることを最大限に生かしたストーリーやキャラクターは、はっきりと美点であると言えるでしょう。msのデザインも全体的に好ましく、バランスのいい作品であったと感じました。

 

次にアナザーガンダム。こちらは、宇宙世紀では表現できない事柄をテーマにしているため、必然的に2001年的な要素は少なくなるのですが、その中でも、かなり1st及び2001年の精神性に立ち返った作品であると感じているのは、機動戦士ガンダムOO及び その劇場版です。テレビシリーズも、戦争に武力介入をすることで争いを止めようとする組織 ソレスタルビーイングを通じて、逆説的に人間同士の「対話」の重要性や、新人類への覚醒が描かれていました。そして、劇場版では、「木星から」飛来した金属生命体ELSの襲来と、ELSとなんとか対話しようとする主人公の刹那と、地球を守るために戦う人類が描かれます。まず木星というモチーフからして、モノリス的な何かを思い出させるし、異星人との対話によって結実するOOと言う作品全体を貫く平和、共存のモチーフは、1968年と言う時代に、2001年が世に出たことも関係あるのではないのでしょうか。最後に刹那が異星人と同化するのは言わずもがな。やはりガンダムと2001年は切っても切れない関係にあるようです。

 

あとがき

オマージュとインスパイアは、元の作品の精神性を完全に汲み取ることが前提条件であると思っています。上っ面だけのダサいオマージュをしてる作品は数多くありますが、このガンダムという作品群は、そういった事態にならず、本当に良かったです。

以上でこの駄文を終わります。最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。