それでも映画は廻っている

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サブカルDA話シリーズvol2 最近のエンタメ作品に感じる事と、それを忖度するための作劇論

 

はじめに

今回の記事は、筆者の個人的思想と趣味にのみ基づいて書かれました。読んでいて不愉快になるようでしたらブラウザバックしてください。

この記事のシリーズ「サブカルDA話シリーズ」の前作はこちらからどうぞ

2018年3月28日 「宇宙よりも遠い場所」についての記述を追加。

序章 エンタメ作品を観ていて感じる事

筆者は、今でこそ映画をメインに摂取するタイプのオタクであるが、3.4年前にさかのぼれば、深夜アニメしか世界を知らないオタクであった。なぜ筆者が深夜アニメを見るのをやめたかと言えば、俗に言う「美少女回転寿司」のようなキモオタに媚びたアニメしか市場に現れなくなってきたからだ。そして、更に時代が進むと、ラノベ原作アニメ それも「異世界転生もの」とされるジャンルの作品が市場を占拠した。こうした状況下は、エクスプロイテーション的な作品の消費を加速させたと筆者は感じる。つまり、一つの作品を消化するのが乱雑になってきていると感じるのだ。こうした作品たちを見ているうちに、筆者の中で疑問が生じた。今までの人生で楽しめてきた深夜アニメと、新しく台頭してきた深夜アニメ。そして映画は、何が違って、どこまでが許せるのだろうか。さて、ここからが本題となる。まずは深夜アニメや漫画の作劇について考える。

第1章 真実と虚構の配置

大きく分けて、深夜アニメの作劇及びキャラクターの配置については、以下のように分けられる。

① 実在感のある舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現実の社会、ないしはそれを想起させる舞台に、フィクションでしかなしえない設定を持ちえたキャラクターを配置する手法。キャラクターへの感情移入ではなく「描写」で物語を転がすタイプであるといえる。基本的に、日常系アニメとされている作品の半数はこのタイプだ。この手法の長所として、嘘くさいキャラクターが存在することによるノイズがなくなるという事が挙げられる。キャラクターの実在感は、表現物において最重要視されるべき概念である。本来ならノイズが生じるような現実感のないキャラクターを、外部の舞台設定でコーティングすることによって、作品内リアリティラインの担保へとつながるし、なによりストレスフリーになり、日常系アニメ本来の魅力がより際立つのである。具体例を挙げると、ここ最近で観たアニメの中で一番例に挙げやすいので使わせてもらうが、「三ツ星カラーズ」はまさにこの手法のお手本のような日常系である。f:id:slyuroder:20180313163509p:plain

 東京・上野のとある公園の草むらに、結衣さっちゃん琴葉の小学生女子3名から成る「カラーズ」という(自称)秘密組織のアジトがあった。カラーズの3人は知り合いの商店街の店主や警官、高校生たちと交流しながら、上野の平和を守るために、日夜(ただし夜は家に帰っている)行動していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E6%98%9F%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA

 あらすじを見ればわかると思うが、上野という実際に存在する町を舞台にして繰り広げられるのは、現実には絶対にいないであろう、女子小学生3人のアンサンブル。しかし、観ていてストレスがないのは、上野という街を舞台にしたことによるリアリティラインの設定が地盤を固めることによって、アニメ的なウソを受諾しやすい環境へ視聴者を導いているからだと思う。一つのウソを周りの真実が補強しているのだ。それによって、俗にいうアド街的な面白さを引き出す事にも繋がっている。こうした地固めを行っているかいないかで作品のクオリティには大きな差が出ると感じる。

② フィクショナルな舞台設定に、実在感のあるキャラクター

この手法は、主にSF等現実離れした設定で話を進めるタイプの作品に適応される場合が多い。具体的な例を挙げると、「攻殻機動隊」等の作品が挙げられる。前者とは逆に、キャラクターへの感情移入で物語を転がすため、脚本の完成度がより重要になる手法ともいえるだろう。その意味で、ここ最近の中で最も脚本の完成度が高いと感じたアニメは「宇宙よりも遠い場所」だ。

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そこは、宇宙よりも遠い場所──。

 何かを始めたいと思いながら、中々一歩を踏み出すことのできないまま高校2年生になってしまった少女・キマリこと玉木マリ(たまき マリ)は、とあることをきっかけに南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ)と出会う。高校生が南極になんて行けるわけがないと言われても、絶対にあきらめようとしない報瀬の姿に心を動かされたキマリは、報瀬と共に南極を目指すことを誓うのだが……。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E9%81%A0%E3%81%84%E5%A0%B4%E6%89%80

この作品の一番の美点は、凄まじい実在感を誇るキャラクター造形であると思う。まず偉いのは、主人公である玉木マリのキャラクター造形であろう。彼女がこの作品のテーマ的な意味での体現者だ。つまり、若者とは「ここではない何処か」への憧れこそが行動の原動力である ということだ。それを最終的には、旅=人生という形で修練させていった脚本は秀逸である。このキャラクターを成立させた時点でこのアニメは「勝ち」なのだ。物語的な推進力を担保するのは小淵沢報瀬だ。間違いなく彼女がこの物語の中心である。特に彼女のエモーションと物語の盛り上がりがシンクロした12話のメールの演出は非常に見事であったと思う。そして、他に南極行に同行する2人のキャラクター三宅日向と白石結月にも共通することだが、この4人は皆、他の人間には抱えている葛藤が理解されていない孤独な存在である。そんな4人が南極到達と言う点で交わり、個々人の抱えるものが解放されていく。「スタンドバイミー」などに代表されるように脚本として非常に王道かつ、エモーションが伝わりやすい構造だ。だが、この作品は「夢追い人への賛辞」だけでは終わらない。きちんと玉木マリの友人である高橋めぐみのエピソードを通じて、夢を追う事とは、他の何かを犠牲にしなければならないのだという呪い的な側面まで示してもいる。デイミアンチャゼルの「セッション」や「ラ・ラ・ランド」も連想させる。だが、この作品が伝えたいことは、その側面ではない。何かをやり続ければ必ず報われる時が来る。他の奴など気にするな。ということである。どちらかと言えば、「ショーシャンクの空に」的なアプローチと言える。その側面が最も凝縮されたのはやはり9話の「ざまあみろ」である。あの場面のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。そしてそのテーマは13話のラストでの高橋めぐみの行動によって、誰かが夢に向かって進む姿は、他の誰かに波及していく。という領域まで到達する。ここでも涙が出てしまった。他にお気に入りなのは、白石結月関連のエピソードだ。彼女の「友達が欲しい」という悩みと、経験したことがないからこそ、つい友情と言うものを外部化してしまう彼女の行動には非常に胸を撃たれる。だが、そんな彼女に応えるほかの3人の行動にも、また泣かされてしまう。3話のラストなどはまさに自分のツボを押さえた展開であった。このように、殆ど全話に泣けるポイントが用意されているのも魅力の一つであろう。それも決して押しつけがましいものではない。まとめると、今後ここまでのクオリティの作品が出るのか疑問が残る位の傑作である。未見の方はぜひ観てほしい。

③ 実在感のある舞台設定に、実在感のあるキャラクター

闇金ウシジマくん」等現実の社会問題などを描くタイプの作品に使われる手法。というか、この手の作品はこの手法でなければ物語自体が成立しない。そういう意味では、映画的な表現に最も近いといえる。

④ フィクショナルな舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現在の日本のエンタメの主流であり、ジャンプに連載されている漫画のほとんどはこの手法だ。基本的にこの手法は通用する年代の範囲が狭くなりがちだが、たまに物凄い傑作が生まれる場合もある。具体例を出すと「ファイアパンチ」のような作品である。f:id:slyuroder:20180313173507j:plain

はっきりと言わせてもらえば、この作品が漫画史的事件だと捉えられない人間とはお友達にはなりたくない。漫画的にして、映画的。人生と言う与えられた役割を演じるしかない人間達の滑稽さ。運命とは透明なレールの上を歩かされる隷従ではないのか。そして、人はなりたい自分になってしまうのだ。ここまで荒削りでアナーキーで、パワーのある漫画は見たことがない。「映画」というモチーフがコマ割りからシナリオ、メインテーマにまで有機的に絡み合う見事な構成。これこそが芸術なのだと身を持って宣言できる。

ここまでは深夜アニメ、漫画編。基本的にこの2つは敷居は低い。複雑な論考を上記ファイアパンチ等の一部の作品以外はそれほど必要としないからだ。次の映画についてのほうが、敷居は高い。

第2章 「映画的」とはなにか

映画と言うメディアにおいて望ましいのは、説明セリフでなく、映像で説明することである。何故ならば、映画とは3次元の人間が演技をする様子をカメラでとらえているからであり、アニメや漫画とはそもそもの次元、前提条件が違うのだ。第1章で提示した作劇のパターンは、映画においてはよりハイリスクハイリターンになる。しいて言うなら、①は少ない傾向にある。映画と言うメディアではキャラクターの実在感の無さはより深刻な問題点になるからである。③が最もポピュラーであるのは当たり前だが、②と④も多い。しかし、この2つを完璧に達成するのはアニメ、漫画以上に難しい。最高レベルのVFXと、それに負けないくらいの演出力が求められる。古典で言えば、「ブレードランナー」最近で言えば、マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群がそれらの中では最高のクオリティを達成している。そして、それが達成された暁には、映画と言うメディアが克明に映し出すリアリティの恩恵に預かることになる。これこそが、ハイリスクハイリターンと言った由来だ。いずれにしても、製作者の努力なしでは達成しきれない。また、観客側のリテラシーも問われる。②の作品の特に顕著だが、SF ホラーというジャンルの表面だけを見て判断してはいけない。実際には、それ以上の普遍的なメッセージを伝えたい場合がほとんどである。具体例を挙げれば「トゥモローワールド」や「イットフォローズ」などがあるだろう。こういったメッセージを読み解く能力も確実に必要である。説明を求めるだけの受け身な姿勢を取るのはやめたほうがいい。何故なら、作品のレベルも比例して低下するからだ。作り手にバカだと思われたくなければ、自分からの勉強が不可欠である。こうして観客のリテラシーも意識しなければならない。さて、そろそろこの駄文を終わらせようと思う。

まとめ 

ここまでアニメ、漫画、映画の作劇について書いてきたが、全てにおいて共通するのは、バランス感覚を間違えると終わりなことだ。これが原因で駄作になった作品は数知れない。「ご注文はうさぎですか?」「ラブライブ!」「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」「ダーリンインザフランキス」「トランスフォーマー ロストエイジ」「幸せのちから」などなど、挙げればきりが無いほどに有象無象がひしめき合っている。しかし、逆に言えば、それらの作品の屍を超えて、傑作や良作は生み出されてもいるのである。何が良くて、何がダメなのか。その取捨選択を行うのは我々視聴者であり観客側である。しっかりと自分の中で基準を理論化し、そのものさしに当てはめる。一見当たり前で単純なことだが、それが一番大事だと思う。その延長線上として感想をアウトプットするのも重要である。そうすることで、より自分の思考を確固たるものとして、アイデンティティの糧にできる。そういったことをより多くの人間が実践すれば幸いである。今回の駄文はこれにて終わります。最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。それでは、また別の機会に。

 

最もハズレの少ない映画ジャンル「音楽映画」を語ってみる

 

今回は、僕の経験上、外れを引く確率が最も低いであろうと思われる「音楽映画」というジャンルについて語っていこうと思います。取り上げるのは、映画初心者にもお勧めで、音楽映画の最も根源的な魅力が詰まった作品たちです。それでは、本文をどうぞ。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

稀代の音楽映画作家 ジョン・カーニーの魅力

1.沈みそうな船で家を目指そう「ONCE ダブリンの街角で」

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ダブリンの街角で毎日のようにギターをかき鳴らす男はある日、チェコ移民の女と出会う。ひょんなことから彼女にピアノの才能があることを知った男は、自分が書いた曲を彼女と一緒に演奏してみることに。すると、そのセッションは想像以上の素晴らしいものとなり……。

ジョン・カーニー監督の音楽映画シリーズ第1作となるこの作品。インディペンデント映画であり、全米ではわずか2館からのスタートとなりましたが、口コミが話題を呼び140館まで上映館を増やしたほか、劇中でとても印象的に使われる主題歌「Falling Slowly 」がアカデミー歌曲賞を受賞するなど、高い支持を集めた作品です。ジョン・カーニーの音楽映画の何が特徴かと言うと、音がリズムになり、リズムが重なり、フレーズが歌になり、やがて一つの「楽曲」となっていくまでのプロセスの多好感がこれ以上なく描写されている点です。それが、インディペンデント映画ならではの荒削りでパワーのある画面構成と、アマチュア楽家の不器用な恋愛物語に物凄くマッチするのです。そして、この作品の凄いところは、イギリスの移民問題といった現実の社会問題までも描写して見せることです。つまり、これは現代流にアレンジされた「ロミオとジュリエット」的な格差を抱えた男女の物語でもあるということです。その結末は、決して幸せな物でもありません。しかし、この切なくも力強い物語こそがこの現実に響く詩なのだとおもいます。なぜならば、この物語の主人公たちには名前がありません。つまり、それこそがこの物語の普遍性を象徴しているのです。

2.僕たちは皆、闇を照らすのに必死な迷える星なのだろうか?「はじまりのうた」

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 製作した曲が映画に採用された恋人のデイヴとともにイギリスからニューヨークへやってきたシンガーソングライターのグレタだったが、デイヴの浮気により彼と別れて、友人のスティーヴを頼る。スティーブは失意のグレタを励まそうとライブバーに連れていき、彼女を無理やりステージに上げる。グレタが歌っていたところ、偶然その場に居合わせた落ち目の音楽プロデューサー・ダンの目に留まる。ダンはグレタに一緒にアルバムを作ろうと持ち掛ける。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 この映画が、僕のジョン・カーニー監督作ベストです。前述した音楽が生まれる瞬間のカタルシスが、ニューヨークの町中のいたるところでレコーディングをするという物語にバッチリハマり、更にそこから現実を生きるために必要な音楽の尊さ。という領域にまで達します。グレタとダンが一つのメディアプレーヤーを分け合いながらニューヨークの町中で音楽を聴くシーンはまさにこの映画のテーマ性を象徴する名シーンであると思います。そして、この映画の主題歌である「Lost stars」は本当に素晴らしい曲です。劇中では、グレタがデイヴに送った曲と言うことになっています。最初にグレタがこの曲を歌う時は、別れてしまったデイヴを思い出すかのように歌いますが、2回目。デイヴがこの曲を次に歌う時、原形をとどめないほどに改編されたこの曲を聴いて、2人は相いれない存在だということが浮き彫りになってしまいます。そして、デイヴが歌う3回目。それは、本来の姿を取り戻したLost starsでした。デイヴを演じるアダムレヴィ―ンはMaroon 5のボーカルなだけあって、抜群の歌唱力ですべてを持って行ってくれます。デイヴの歌声を聴いて、グレタは涙を流します。そして、彼女は静かにデイヴのもとを去ります。彼はスターになった。やはり自分とは違うのだ。そう悟ったのだと思います。このように、同じ曲を複数回にわたって違う意味を持たせて使うという手法が音楽映画の生理的快感が詰まっています。この映画は、悪い人が出てきません。グレタとダンも、決して恋愛関係になることはなく、必要以上のドラマは描きません。だからこそ、音楽それ自体の幸福が、より純度が高く描かれます。誰が観ても楽しめる傑作です。まだ観てない方はぜひ観てください。

3.何があっても立ち止まるな「シングストリート 未来へのうた」

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1985年、大不況のダブリン。人生14年、どん底を迎えるコナー。父親の失業のせいで公立の荒れた学校に転校させられ、家では両親のけんかで家庭崩壊寸前。音楽狂いの兄と一緒に、隣国ロンドンのMVをテレビで見ている時だけがハッピーだ。ある日、街で見かけたラフィナの大人びた美しさにひと目で心を撃ち抜かれたコナーは、「僕のバンドのPVに出ない?」と口走る。慌ててバンドを組んだコナーは、無謀にもロンドンの音楽シーンを驚愕させるPVを撮ると決意、猛練習&曲作りの日々が始まった――。

http://gaga.ne.jp/singstreet/

 

この映画は、日本ではカルト的な人気を誇る作品です。何がカルト的なのかと言えば、この物語は、特に全ての「兄弟たち」に捧ぐ物語であるからだと思います。ここでいう兄弟と言うのは、生物学上の意味も勿論ありますし、ジョン・カーニー監督の自伝的な映画でもあるこの映画に共感したソウル・ブラザーの事も指しています。そして、抑圧された環境に対する不満を音楽に変えるという今まで以上にロックンロールな音楽観を持った物語は、どうしたってカタルシスを産むものです。この映画の主題歌である「Go now」はまさにこの映画にぴったりな、夢に向かって突き進む若者への賛歌になっています。音楽的にも、歌詞的にも非常に胸が熱くなります。この曲が流れるEDは涙なくしては見られません。

 

Hey, we're never gonna go if we don't go now
いま行かないならいつ行くんだ?
You're never gonna know if you don't find out
君が探し出さなければ誰が見つけられる?
You're never going back, never turning around
君は決して引き返さないし、横道にそれたりしない
You're never gonna go if don't go now
いま行かなければもう行くことはできない
You're never gonna grow if you don't grow now
いま変わらなければもう変わることはできない
You never don't know if you don't find out
いま探さなければもう見つけることはできない
You're never going back, never turning around
君は決して引き返さず、横道にそれることはない
You're never gonna go if you don't go now
いま行かずにいつ行くんだ?

You're never gonna go if you don't go now
いま行かなければ一生ここにいる事になる
You're never gonna know if you don't find out
いま行動を起こさなければ一生知らないままだ
You're never turning back, never turning around
きみは決して戻ったり、迷ったりしない
You're never gonna go if you don't go
行くチャンスはいましかないんだ

引用元

 http://blog.livedoor.jp/yamashu_85/archives/3686951.html

 この映画は、今に不満を持っているすべての若者にお勧めできます。そういう意味では、次に紹介する作品も同様です。

本当のことは歌の中にある「夜明け告げるルーのうた

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寂れた漁港の町・日無町(ひなしちょう)に住む中学生の少年・カイは、父親と日傘職人の祖父との3人で暮らしている。もともとは東京に住んでいたが、両親の離婚によって父と母の故郷である日無町に居を移したのだ。父や母に対する複雑な想いを口にできず、鬱屈した気持ちを抱えたまま学校生活にも後ろ向きのカイ。唯一の心の拠り所は、自ら作曲した音楽をネットにアップすることだった。 ある日、クラスメイトの国夫と遊歩に、彼らが組んでいるバンド「セイレーン」に入らないかと誘われる。しぶしぶ練習場所である人魚島に行くと、人魚の少女・ルーが3人の前に現れた。楽しそうに歌い、無邪気に踊るルー。カイは、そんなルーと日々行動を共にすることで、少しずつ自分の気持ちを口に出せるようになっていく。

 しかし、古来より日無町では、人魚は災いをもたらす存在。ふとしたことから、ルーと町の住人たちとの間に大きな溝が生まれてしまう。そして訪れる町の危機。カイは心からの叫びで町を救うことができるのだろうか?

http://lunouta.com/

天才アニメーター湯浅政明の初のオリジナル作品です。物語はいうなればセカイ系ですが、他のセカイ系のように内に閉じた世界観ではなく、全ての人を救済する優しさがこの映画には詰まっています。むしろ逆で、主人公のカイ君は、自分と言うものを発揮できない心を閉じた中学生ですが、ルーというイノセントを内包した少女との出会いによって、彼は本来の明るい性格を取り戻していきます。そして、この映画の白眉といえるのが、カイ君が「歌うたいのバラッド」を歌うシーンです。序盤から貼られてきた伏線と、作劇上のエモーショナルの高まり、カタルシスが完全に一致して、涙があふれる素晴らしいシーンです。ここまで長々と語ってきましたが、改めて音楽映画の素晴らしさをまとめたいと思います。

・曲の歌詞が物語とシンクロするカタルシスを味わえる。

・同じ曲を何度も使うことによってその意味合いの違いを感じることができる。

・人間の精神構造上、視覚と聴覚両方に訴えたほうが感情の変化の度合い(泣かせ度)は大きくなる。

・よって、音楽映画は誰が観たとしても一定の開かれたカタルシスを感じられる。

今回はこれで終わりです。御意見等あれば遠慮なく言ってください。それでは。

 

 

僕の好きな劇場用長編アニメーションについて。 アニメ映画は、「イノセントの消失」によって繋がっていく。

今回は、リクエストがあったので、劇場用長編アニメーションをテーマに、僕の好きな作品を語りたいと思います。大きく分けて2つ 日本と海外のアニメ映画に分けて話を進めていきます。そしてそれらの作品に潜む共通のテーマ「イノセントの消失」についても論じていきます。それでは、本編をどうぞ。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

日本製長編アニメーション 宮崎駿という作家

日本製長編アニメーションを語るうえで、やはり宮崎駿は外せません。「風の谷のナウシカ」より始まったスタジオジブリ作品の歴史は、今や全世界的なカルチャーになっています。彼の作品には、やはり明確な作家性が存在します。何かと言えば「イノセントを持つ子供が、世界の暗部を知り、大人になる話」であるといえると思います。つまり、毎回「不思議の国のアリス」をやっているともいえます。アリスこそ、「イノセントの消失」つまり、子供から大人になり、純粋さを失い、汚れた世界に向き合っていく物語の典型例です。それに加えて、汚い世界の肯定を行うのが宮崎駿です。ナウシカの原作版(腐海を巡る価値観)を見ればよくわかりますし、魔女と宅急便における「魔法」の在り方(風邪をひくことで魔法が使えない=少女が初潮を迎え、女になることの象徴。黒猫のジジとはもう話せなくなってしまう。最も不思議のアリスに近い。)千と千尋における銭湯(湯屋 ソープランド及び性風俗産業)などに見られる汚れた世界の真実。その中で子供が成長していく物語として、宮崎駿作品は非常に論じがいがある作品群であると思います。では、これ以降のアニメ作家は何を生み出してきたのか。

細田守と言うアンビバレント

最初に言っておくと、僕は細田守作品が好きではありません。確かに、ことアニメ的快感。つまり、「何気ない日常の所作をアニメで再現する」という快感の面ではかなり質が高いと思います。ですが、はっきりと問題点が多い作品も目立ちます。特に「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」の3作については、特にその傾向が顕著であると思います。サマーウォーズは、キャラクターの層の浅さ、プロットが過去作のデジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲームの流用である点。おおかみこどもは、2人の子供の生き方の対比が、結局人間側の登場人物に物語上の力点が集中しているために意味をなさない点。バケモノの子は、後半の展開の観念性の高さから生じる寓意性が、最後の最後の着地で台無しになり、イノセントの消失と言うテーマがもろくも崩れ去ってしまった点が、大まかな問題点だと思っています。彼が、ポスト宮崎駿と言われているのは、ある種「国民的」であり、お行儀のよいアニメーションを作れる作り手としての面を指しているのでしょうが、前述したように、宮崎駿は決して国民的なアニメーションとは言えないようなテーマを扱っています。つまり、細田守宮崎駿性は作画のキャッチーさ以外ないのではないでしょうか細田守がポスト宮崎駿として挙げられるのにはいささか不満ですが、最新作の「未来のミライ」もどんな作品なのか、気になる面はあります。彼がいつか化ける日が来るのか、神妙に待ちたいと思います。

世界の片隅で、生を肯定した人間賛歌この世界の片隅に

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この作品は、日本アニメ史に残る、それどころか、日本映画史に残るレベルでの大傑作であることはみなさんもご存じでしょう。僕のオールタイムベストのうちの一本でもあります。改めてこの作品を説明するならば、原作の絵のタッチを完璧に再現した温かみのある作画や、徹底的にリサーチを重ね、歩いている通行人一人ひとりが実在する時代考証の正確さ。それによって、初めて70年前の生活がリアルに感じることが出来ました。そして、時代に翻弄された一人の女性、すずが抱いていたかすかな幻想が戦争によって踏みにじられ、無垢な少女が否応なく過酷な現実を直視せざるを得なくなる。これぞ、「イノセントの消失」です。彼女が右手と晴美を失うという展開もこれに該当します。この展開の後、急に画面がゆがんだような作画になりますが、彼女の内面から見た世界のゆらぎを象徴したシーンです。原作だと本当に左手で書いているというのですから凄いものです。そして、この物語は最終的に、現実を生きることを肯定してくれます。自らの手で描く絵と言う幻想でしか現実に対抗できなかったすずは、右手を失ったことによって、体で現実に向き合い、周作と喧嘩をしたり、世界に対して声を上げて慟哭するようになります。そして、彼女は多大なる代償を乗り越えて、この世界の片隅で周りの人たちの「笑顔の入れ物」になることを選びます。それこそが、70年後の世界を生きる我々の心に確かに響く、「生の肯定」なのです。 さて、次は海外の長編アニメーションについて論じていきます。

ディズニー・ピクサーの3DCGアニメーション 在りのままの世界を描き出す作品たち

ディズニーといえば、これまた全世界的な映画会社です。主力のアニメーションにくわえ、スターウォーズなどと言ったドル箱シリーズをサブウェポンとして所持しているとてつもない会社です。さて、ディズニーと言えばアニメーションですが、その中でもプリンセスストーリーが伝統のシリーズです。ですが、今日的な価値観で往年のディズニー作品を観返すと、いささか不自然に感じられてしまう部分もあります。それらの点を、ここ最近のディズニープリンセス物は解消しようと努めてきました。その中でも僕が最も好きなのは「塔の上のラプンツェル」です。前作「プリンセスと魔法のキス」から始まった「異性愛の成就が物語の結末ではない」「ポリティカリーコレクトに配慮したキャラクター描写」と言った要素が次作の『アナと雪の女王』よりも優れていると感じました。最近は、それ以外の3Dアニメーション部門が好調です。「シュガーラッシュ」に始まり「ベイマックス」「ズートピア」と言った傑作を連発しています。

そしてピクサーですが、「イノセントの消失」というテーマに近い作品を作っているのはこっちのほうだったりします。ピクサー作品の特徴として、作り手の等身大で作品を作っているところが挙げられます。「トイストーリー」ならば、子供を喜ばせる職人仕事としておもちゃを描きましたし、「モンスターズインク」は子供が出来てあたふたする父親の話です。その中でも、「イノセントの消失」に最も近いのは「インサイドヘット」でしょう。12歳の心のバランスが崩れた少女の頭の中を映像化するという内容ですが、これも監督の実体験が元になっています。そして、この映画に出てくる登場人物の中でも、やはりビンボンというキャラクターが辿る結末には号泣してしまいました。彼は、全ての一人っ子、空想家に送るレクイエム。非常に普遍的な感動をもたらしてくれます。

さて、ここまでは大手のスタジオの作品をご紹介していましたが、マイナーめなスタジオの作品をご紹介します

物語を物語る意義 「KUBO クボ 二本の弦の秘密」

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僕の2017年ベスト1の作品です。この作品は、ストップモーションアニメーションで作られています。3秒を作るのに1週間はかかったといわれています。ですが、それに見合うだけの圧倒的なアニメーションの迫力と「生きている」キャラクターに溢れています。クボ然り、サルの母性と厳しさを併せ持ったキャラクター。クワガタの抜けているものの、決めるときはビシッと決めるかっこよさのバランスが、とてもすてきだと思いました。敵方である月の帝や闇の姉妹の愛憎入り混じる屈折した感情表現も素晴らしかったですし、なによりも、「人はなぜ物語を必要とするのか」というメインテーマが行き着く着地としてはあまりにも見事な落ちのつけ方。そしてラストの圧倒的にエモいシークエンスの美しさ。徹底的にリサーチされた日本描写が、ここにつながっています。ここまで感受性を刺激された作品もそうそうないです。非常に素晴らしい傑作。ぜひ皆さん観てください。

あとがき

ここまで書いてきて、自分でも今まで挙げてきた作品のほぼすべてに「イノセントの消失」が作品の要素として含まれていることに驚いています。やはり、元来子供向けとされてきたアニメと言うメディアの反動として、幼年期の終りと言う物語構造が志向されるのではないのでしょうか。そのような作家性をも包括するテーマが存在するのは興味深いことです。以上で、この駄話を終えたいと思います。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

アイデンティティーの消失の果てに 「ブレードランナー2049」

 

今回は、自分の琴線にダイレクトに引っかかった映画に出会い、是非とも文章を書きたいと思ったので、記事を書きたいと思います。僕がこのブログでもたびたび書いてきた「アイデンティティー」についての映画でもありました。過去の記事についてはこちらのリンクからご覧ください。

それでは本文に移りたいと思います。

 

 

注意 今回紹介する作品は、ネタバレ厳禁な映画となっています。未見の人がこの記事を回覧することを想定していませんので、ご注意を。

 

 

 

不可能を可能にしてしまった映画 「ブレードランナー2049」

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http://saku-ara.com/archives/3765

 2049年遺伝子工学によって誕生したレプリカントはさらに進化を遂げ、より人間に近づいていた。一方で、旧型モデルのレプリカントは人間にとって代わろうとするなど、危険視されて排除されていた。その排除の役目を担うのは、新型レプリカントであり、彼らはブレードランナーと呼ばれた。Kは、LAPDのためブレードランナーとして忠実に働き、古いモデルのレプリカントを逮捕・抹殺していた。  Kは任務の中で、「子供を出産した女性レプリカント」の遺体を発見する。Kの上司は、その事実にショックを受け、世界の秩序を守るために子供の処分をKに命じる。捜査の中で、Kは自分に幼少期の記憶があることに気づく。そして、自分こそがレプリカントが産んだ子供ではないかと考え始める。そして、ついに彼は子供の父親である元ブレードランナー「リック・デッカード」に出会うのだった。

 

僕はこの映画 絶対に失敗すると思っていました。なぜならば、この映画は、「ブレードランナー」の続編だからです。ブレードランナーを一度でも観たことのある人の内100人中100人が、続編と言う企画が成功するとは答えないでしょう。あまりにも前作の存在は巨大であり、その続編ともなると、出来が危ぶまれていました。しかし、やってくれました。ドゥニヴィルヌーヴ監督は見事に成し遂げたのです。まさかここまで感情を揺さぶられるようなエモーショナルな映画になっているとは思いませんでした。では、具体的な内容の話をしていきます。

 

1 Kと言う男が抱えるもの

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まず、この映画を語るうえで外せないのが、主人公であるKのキャラクターでしょう。

彼はネクサス9型でありながら、ブレードランナーとして同族を殺す仕事をしている男です。しかし人間達からは蔑まれ、友達はおらず、自宅のドアにも悪意ある落書きがされている有様でした。彼は徹底して「孤独」を抱えたキャラクターです。そんな男をライアンゴズリングに演じさせたのが、まず何よりも素晴らしい点です。ライアンゴズリングは「ハーフネルソン」「ラースと、その彼女」「ドライヴ」などで「本質的には孤独である男」を演じてきました。今回のKも、その系譜に連なる役であると思います。Kは、サッパーと言うレプリカントを「解任」する任務の途中に発見した子供を産んだ形跡のあるレプリカントの遺体と、その子供が預けられた孤児院で、自分が元々持っていた木馬を隠した記憶と完全に一致した情景を見て、自分こそがレプリカントと人間との子供であると感じ始めます。その真相を確かめるべく、30年前に逃亡したブレードランナー デッカードのいるラスベガスへと向かいます。Kと言う男は孤独だといいましたが、彼を唯一理解し、健気な愛情を注いでくれるのは、ホログラムのジョイという存在です。

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彼女を演じるアナ・デ・アルマスは、この映画で世界中の観客を虜にしたことでしょう。かくいう私もその一人です。孤独な男をたった一人理解してくれる女の子も、プログラムされた愛情であり、実体はなく、決して交じり合えないという残酷さ。彼女が何とか実体を得ようとして、娼婦の女の子と自分を同期させてまでKと交わろうとするシーンは切なくて泣いてしまいました。しかし、彼女が「死」という一点で人間と同一になり、Kの孤独な旅路に同行します。ですが、ここからKの不幸の連鎖が始まります。レプリカントの記憶を作る技師に会いに行き、自分の記憶を判定してもらいますが、木馬の記憶も、実は作られた記憶であることが判明します。さらに、デッカードに会いに行ったは良いものの、敵の尾行にあっており、デッカードも連れ去られた挙句、ジョイを失ってしまいます。ここまででも十分に不幸な目に合っていますが、これが最後ではありません。これを含めた物語の最終盤の部分は後述します。次は、デッカードを含む残りのキャラクターについてです。

2「愛」を抱えたキャラクターたち

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前作でレプリカントのレイチェルと共に逃亡したデッカード。30年後の彼は、放射能渦巻くラスベガスで隠遁生活を送っていました。彼は、レイチェルとの間に子供を授かることが出来ました。ですが、レイチェルは子供を産むと同時に死亡。当局に追われる可能性があったために、出産に立ち会うこともなく、子供と生き別れになり、一人孤独に生きることを選んだのです。「誰かを愛するためには、時に他人にならなければならない。」彼の選択はひとえに、レイチェルへの愛のためでした。だからこそ、ウォレスによって作られた30年前の姿を完全に再現したレイチェルを目の前にしても「彼女の瞳は緑だった」と言って拒否します。彼によって自分たちの愛は仕組まれたものではないかとと問いを投げかけられても、彼はブレません。愛を貫き通した男として、非常に完成されていました。

 

レプリカントを製造するウォレス社の社長。ウォレスは、創造主であり、神を目指す男として描かれています。命を生かすも殺すも自由な彼は、自らの作ったレプリカントを「天使」と呼びます。このような点も含め、聖書的なモチーフが多いです。「悪い天使がいた」と彼は言いますが、これは前作での最重要キャラクター「ロイ・バッティ」の事です。「失楽園」における創造主たる神を裏切った大天使ルシファーです。それに対し、忠臣のような役割を果たすのが、ネクサス9型の殺人レプリカント ラヴです。

彼女はウォレスを愛する大天使の役割を果たします。彼女は人を殺すときに必ず涙を流します。これも、共感性が備わったネクサス9型ならではの特徴と言えるでしょう。

このように、この映画の登場人物は、それぞれが「愛」を抱えています。それがプログラムされていた物だとしても、人を愛する気持ちに、優劣はありません。人間かレプリカントか。その違いはもはや存在しないといっていいでしょう。大事なのは、どう生きるか。人と機械の差は、そのようにして判断されるのではないのでしょうか。では、最終盤の展開について言及していきます。

3 大義のために死ねるか? 他人のために死ねるか? 

レプリカントによるレジスタンス組織に救出されたK 彼はそこで、信じがたい真実を聞くことになります。レイチェルの子供の性別は女の子であり、男の子ではないということです。自分がその子供だと信じてきた彼の希望は、無残にも打ち砕かれてしまいます。しかしそれでも、彼は自分がレプリカント以上の存在になるために、「大義のための死」を成そうとします。ラヴによってオフワールド(外宇宙)に連れて行かれそうになっていたデッカードを救出しようとします。彼はレジスタンスに、デッカードを殺すよう指示を受けていましたが、殺すことはせず、レイチェルの娘であるレプリカントの記憶技師、アナ・ステリンの元へデッカードを連れて行きます。そこで彼は、自分の偽造された記憶である木馬を、デッカードへと渡します。それによって、自分と言う存在がデッカードの記憶の中に存在し続けることを願ったのでしょう。Kは、ラヴとの戦いで負った傷のせいで、地面に倒れこんでしまいます。そこでは雪が降っていました。その雪を見つめながら、彼は死んでいきます。前作のブレードランナーが雨の映画だとしたら、今作はまさしく雪の映画でしょう。Kと言う男の生き様が、雪によって象徴されています。このシーンで流れる音楽は、前作においてロイ・バッティが雨の中で独白をする名シーンの音楽がそのまま使われています。30年前に「愛」に目覚めたレプリカントに助けられたデッカード。そしてまた、彼は父と娘の「愛」のために戦ったレプリカントによって再び命を救われたのです。このラストシーンは、非常に感動しました。それまで存在を否定されてきた男が、誰かのためにその命をささげる。僕の大好きな物語構造です。世界から切り離されている男の右往左往。これは遠い未来の話ではなく、今現在のSNS時代の人間の象徴ともいえます。コミュニケーションと言う概念が希薄になっているこの時代、誰かのために、愛のために生きることが本当の意味で出来る人間が果たして存在するのでしょうか。人間の本質とはなんなのか?「愛」である。この映画はそのメッセージを、儚くも力強く、我々に伝えてくれたような気がします。

4 アンドロイドは人間の夢を見たか?

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は今作の物語は「ピノキオ」であるとインタビューで語っています。どちらも人間になろうとする男の物語です。それに加えて、僕は同じくピノキオを元にした作品である「A.I」も連想しました。主人公がどんどん不幸な目にあって行くのも似ていますし、「愛」の物語である点も共通しています。主人公が辿る結末も似ています。ブレードランナーと言う映画の本質は、生命体が持つ感情を巡る話だと思っているので、この点をさらにブラッシュアップしてきたことをうれしく思っています。前作では感情の中心が主人公ではないという問題点?がありましたが、今作はしっかりと主人公に感情移入できます。不可能だと思われた続編を、こんなヒューマニズムあふれる物語に仕上げるなんて、僕は思ってもみませんでした。非常に素晴らしい傑作をありがとう、ドゥニ・ヴィルヌーヴ

「仮面ライダークウガ」と「ダークナイト」の本質は、同じである。

今回は、ふとした会話から生まれた記事です。

以前このような記事を書きましたが、今回もこの記事に近いような内容になると思います。作品を貶す内容である訳ではありませんが、本質的な「やりたい事」がこの二本は共通しています。それでは、本文をどうぞ

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

時代をゼロから始めよう 「仮面ライダークウガ

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98

西暦2000年。長野県山中の九郎ヶ岳で謎の遺跡が発掘されたが、棺の蓋を開けたことで目覚めた謎の存在によって、夏目幸吉教授らの調査団は全滅させられてしまう。捜査に当たった長野県警刑事・一条薫は五代雄介と名乗る冒険家の青年と出会う。雄介はそこで見せてもらった証拠品のベルト状の遺物から、戦士のイメージを感じ取る。

ズ・グムン・バに遭遇した雄介は、咄嗟の判断でベルトを装着して戦士クウガに変身した。そして、人々の笑顔を守るために怪人たちと戦うことを決意する雄介。

以後、クウガと怪人たち=グロンギは「未確認生命体」と呼ばれ、人々に認知されていく。

 

 平成ライダーシリーズ第一作となったこの作品。この作品と聞いて思い出すのはなんでしょうか。既存の作品に比べても、格段に現実に近い警察描写。気合の入ったバイクアクション。主人公五代雄介や周りを取り巻くキャラクターたちの魅力。殺人ゲームを楽しむ古代文明が敵という斬新さ。このあたりでしょうか。ですが、個人的にこの仮面ライダークウガという作品に思う事として、この作品の実態は非常にクラシカルな昭和特撮であると思っています。つまり、「斬新さ」と「センスオブワンダー」は似て非なるものだということです。個人的に、平成ライダー龍騎からが本番だと思っています。何故かと言えば、それまでの仮面ライダーでは絶対になしえなかった重層的かつ社会性を持った物語と、仮面ライダーだからこそ描けるキャラクター性を真の意味で両立できたのはこの作品からであると思っているからです。僕はこういう作品が見たいし、積極的にプッシュしたい。そう思わせるだけの何かが、個人的にはクウガと言う作品には薄かったように思えました。さて、クウガより8年が経った2008年。アメリカで一本の作品が公開されます。それは、今まで軽く扱われてきたアメリカンコミックの実写化と言う枠を超えて、一本の傑作 マスターピースとして、アカデミー賞のルールすら変えうるような作品だったのです。

そのしかめっ面はなんだ? 「ダークナイト

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バットマンが活躍するゴッサムシティでは、それまで町に蔓延っていた犯罪者たちが夜に怯えて暮らしていた。しかし、依然として町から汚職や犯罪が一掃されたわけではない。新任検事のハービーはゴードンやバットマンと共にマフィアの掃討に当たる。追い詰められたマフィアは、狂人のジョーカーにハービーとバットマンの抹殺を依頼する。

 

映画ファンやアメコミファンにはもはや説明不要の作品です。この作品の何が凄いのか。まず、2008年のブロックバスター超大作とは思えないようなアメリカンニューシネマ的なストーリーが挙げられます。人間の善意を信じようと戦うバットマンことブルースウェイン。人間が信じているものを心の底からグラつかせようと誘惑するサタン的な悪役のジョーカー この二人の対決は、「ダーティーハリー」におけるハリーとスコルピオにも通じます。善と悪 警察的な法の執行と自警行為 復讐の是非 といった、非常に複雑な対比によるテーマ性を持ったストーリー性や、劇映画としては初めてIMAXカメラを使用したことによる画面のルックの素晴らしさ。ジョーカー役のヒースレジャーが文字通り命をかけて演じたジョーカーというキャラクターの凄まじさが、この作品を日本以外の国では大ヒットへと導いたのだと思います。前述の仮面ライダークウガとの共通点ですが、どちらの作品も、「ヒーローという存在の現代的な再定義と象徴化」を行っている作品だと感じました。既存のヒーロー物の常識、お約束に縛られない作劇ではありますが、最終的なヒーロー的なる存在の落としどころは、むしろクラシカルなものであると思います。そして、この2本を評するときに、「リアル」という表現が使われることが多いと思いますが、僕は違うと思います。なぜならば、この2つの作品の目的は前述したとおり「象徴化」なのであって「リアル化」ではないのです。そもそもこの表現を使って評している人たちは「リアル」と「リアリズム」をはき違えているのではないのでしょうか。あくまでもフィクション作品に求められているのは現実世界とリンクするようなメタファー 比喩的表現だと思っているので、僕は「リアル」であることが作品に必ずしも良い影響を及ぼすとは考えていません。そのうえで、我々に問題提起を促すようなクウガダークナイトのような作品(前述のとおりクウガはあくまでも踏み台だと考えていますが)が僕は好きなのです。

これで今回の文を終わります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

僕の「ヒーロー論」的な何かを綴ってみる。

今回は、以前書いたこの記事に近い立ち位置の記事です。

slyuroder.hatenablog.com

所謂、特撮、アメコミなどにおけるヒーロー的なるものについての個人的な思想表明として、今回の記事は書きたいと思います。それでは本文をどうぞ。

 

注意 今回の記事は、筆者個人の好みが色濃く出た記事になります。読んでいて違和感が生じることがあるかと思いますが、ご了承ください。

また、今回の記事では、本来特撮といったヒーロー物は「子供向け」などと言った類の論調は完全に扱いません。何故ならば、この記事を書いている人間は子供の視点ではヒーロー物を観れませんし、こういったジャンルはもはや子供のものだけではないと思っています。この記事も子供は見ないことを前提に書きます。

 

 

 

1 ヒーローとは、「異質」であり「孤独」であるべきか?

まず、僕の好きなタイプのヒーロー的なる存在の1つのパターンとして、類型的な言い方をすれば、「孤独を背負った人間」もっと極端な言い方をすれば「世間から見れば決定的に異質な存在」というバックボーンを抱えたような人物が好きなのです。つまり、仮に何らかの超能力を発揮できるような超人が現れたとして、その存在は、普通の人間から見たら、神か悪魔かは紙一重でしょう。仮面ライダーと言う存在を突き詰めてしまえば、飛蝗の怪人でしかないのです。バットマンも、客観的に見てしまえば、蝙蝠のコスプレをした精神異常者です。そしてその存在は決して代替不可であり、同じような境遇を抱えた人物は、むしろ戦うべき敵にこそ存在する。石ノ森章太郎イズムこそが、僕の理想のうちの1つだといえるでしょう。このパターンが好きなもう一つの理由として、ヒーローの心理描写が必然的に多くなるから という点もあります。すなわち、葛藤を普通のドラマに比べ描きやすいということです。自らと同じような存在を裏切り、人間側について戦うものの、その人間からも決して好意的には見られていないという苦悩とジレンマ。このようなドラマこそが、このパターンの魅力だといえるでしょう。では、次は僕が個人的に思っていたことについて書いていきます

 

2 ヒーローは「模範的」であるべきか

所謂「真面目」「人格者」「非の打ちどころの無いような好青年」的なキャラクターは、特に特撮には顕著なキャラクター設定と言えます。これは僕の好みですが、そういったキャラクターに僕はあまり魅力を感じません。何故ならば、そういったキャラクターたちは、その主人公が持つヒロイズム性を強調するためにそのような性格付けをされている。つまり、作り手側がドラマを描きやすいからそうしているだけに過ぎないのです。僕は、「ヒーローその物のかっこよさ」よりも「ヒーロー物という土台、設定を使って如何に様々なことを表現できるか」と言う方面のほうに関心があるので、こういったことを思うのはある種当然と言えます。僕が言いたいことを的確に表した言葉を映画秘宝 2017年10月号に掲載されているポールヴァ―ホーヴェン監督インタビューより引用します。

 

簡単に理解できるキャラがすぐに予想のつく行動を取る映画を観るということは、何も考えずに済むということだ。お手軽な「理解」や「共感」は思考停止に結びつく。その結果、物語の文脈を考えることもなくなってしまうし、キャラの行動原理を深く追うこともしなくなってしまう。私は自分の映画を観る観客に作品をもっと深く味わってほしいと思っている。登場人物に「共感」できないということは、その作品が面白いということと関係がない。

 

 

 

 結局の所、道徳の教科書のような主人公を見たところで、僕は何も感じないのです。ここで僕が好きなヒーロー的なる存在の具体例を出しておきましょう。「ウォッチメン」の「ロールシャッハ」です。

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https://www30.atwiki.jp/niconicomugen/pages/2076.html

 

「キーン条例」によりヒーロー活動が禁止されたアメリカ合衆国、ニューヨークにおいて、
違法に自警活動を続け、ストリートで犯罪者を叩き潰している、たった一人のヒーロー。
……それがロールシャッハである。
条例制定時には、連続レイプ魔の死体に「断る!」と手紙を添えて警察署の前に放置したため、
殺人容疑をかけられて警察には追われているし、その暴力的な活動方針から一般市民にも疎まれている。
設定資料によると、この他にも正当防衛による殺人が五件、そうでない殺人がもう一件あるという。

性格は冷酷かつ独善的な右翼主義者で、基本的に他人と馴れ合う事は無い。
素顔は常に無表情で、うねうねと不気味に蠢くマスクの模様こそがロールシャッハの顔だと言える。
悲惨な子供時代から唯一小さい子供にだけは優しさを見せるが、それも相手が不良でなければの話である。

 

良くも悪くも善悪の妥協を許さない暴力的な人間であり、一般の範疇からは狂人と呼ばれるに違いない男。
その精神状態は、診察した精神科医が影響を受け、逆に狂ってしまうほどである。深淵を見つめるものは……。

 このようなキャラクターを、原作者のアランムーアはこう評しています。

 「彼をモラルの価値が地に落ちた時代を行く聖戦士と見るか、
 無差別に殺害を繰り返すサイコキラーと見るかは、読者の自由だ」 

 僕は完全に前者です。そもそもこのウォッチメンと言う作品自体が、現実にヒーローが存在したらどうなるか。を徹底的に追求した作品なので、まさしく僕の好みなのです。その中でもこのロールシャッハと言うキャラクターは、物語の狂言回しとして、非常に印象的なキャラクターです。彼は、自らが信じる「正義」のためなら、神に楯突くことも厭わないような人物です。その、絶対に妥協しない精神性こそが、僕がこのキャラクターに惚れ込んだ所以なのです。つまり、僕はヒーロー物に限らず、作品の登場人物を精神的な面で評価する傾向があります。これはあくまでも1例です。昭和特撮の主人公が好きな人を否定する意図はありません。唯、僕はそんな主人公を無条件に肯定するような絶対的な風潮には絶対にノれません。

では、前述したアランムーア氏の言葉を持って、この記事を終わらせたいと思います。

 「俺たちは実は凄い力を持っているんだが、ソファに座ってビール片手にテレビを見ているだけだ。
 スーパーパワーがあったって、やっぱりソファに座ってビール片手にテレビを見てるだけだろう。
 馬鹿がコスチュームを着たところで、変な格好のおかしな奴が1人増えるだけだ。
 ヒーローってのはスーパーパワーがあるとか、コスチュームを着てるって事じゃない。 
 自らの意志でもって世界を良くしようと戦う人々のことを言うんだ 」 

 ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

自分が好きな「恋愛映画」について 

今回は、自分の好きな恋愛映画についてまとめたいと思います。最近僕は、どれも質が良い恋愛映画に出会ってきました。そのどれもが、恋愛の厳しい面を浮き彫りにするような胸が痛む傑作でした。それでは本文をどうぞ

 

 注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 2017年10月10日 (500)日のサマーについての記事を追加

 

 

 

気持ちが違えば、世界も変わる「エターナルサンシャイン」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3

もうすぐバレンタインという季節。平凡な男ジョエルは、恋人クレメンタインと喧嘩をしてしまう。何とか仲直りしようとプレゼントを買って彼女の働く本屋に行くが、クレメンタインは彼を知らないかのように扱い、目の前でほかの男といちゃつく始末。ジョエルはひどいショックを受ける。やがて彼はクレメンタインが記憶を消す手術を受けたことを知る。苦しんだ末、ジョエルもクレムの記憶を消し去る手術を受けることを決心。手術を受けながら、ジョエルはクレメンタインとの思い出をさまよい、やがて無意識下で手術に抵抗し始める。

 この映画の脚本を書いたのは「マルコヴィッチの穴」や「アダプテーション」で注目を集め、「脳内ニューヨーク」や「アノマリサ」では監督も務める奇才、チャーリーカウフマン。それだけに、非常に難解な構造と、脳内の記憶の映像化という設定らしい、どこかおかしい悪夢的世界が描かれます。ですが、難しい映画化と言われれば決してそうではなく、とても普遍的な感動を我々に与えてくれます。当たり前ですが、人付き合いと言うものは最高の状態がいつまでも続くわけではありません。絶対に最悪の状態はやってきます。では、どうすれば恋愛は終わることなく続くのでしょうか。この作品が提示した答えは「今のつらい出来事だけでなく、過去を振り返ろう。これからうまくいかないかもしれないけれど、楽しかった思い出は本物なのだから、やり直すことはできるんじゃないか?」と言うものだと思います。彼女との記憶を過去に向けて遡っていくジョエルの姿は、ある種の地獄めぐりでもあり、人生を生きなおすことでもあります。

だからこそ、どんどん記憶から消えていく彼女に思いを馳せ、「この記憶だけは消さないでくれ」と懇願するジョエルの姿。記憶が消えてしまったにも拘らず、再びめぐり合ってしまう彼らの姿は、非常に胸を打ちます。この映画が恋愛映画の古典として認知されているのは、このようなエモイスティックな感動であると思います。では、この映画をポップでオシャレに描いたらどうなるのでしょうか。次に紹介する作品は、まさしくそんな作品です。

一瞬の愛、夢、笑い声 「(500)日のサマー」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/(500)%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC

LAで、グリーティングカード会社で働いているトムは、地味で冴えない毎日を送る青年。ロマンティックな出会いを期待するも、大学で建築を学んでいた彼にはグリーティングカード会社での仕事はつまらなくて、職場にはおばさんばかり。

そんな彼はある日、秘書として職場にやってきたサマーに一目惚れしてしまう。出会いから4日目、トムが偶然サマーと同じエレベーターに乗り合わせたとき、ふいにサマーは「わたしもザ・スミスが好き」と声をかける。そしてそこから二人の交流が始まる。ストーリーはトムの空想と、サマーとの実際の関係を絡めてどんどん進んでいく。

会社のパーティーの帰りがけに、トムはサマーに好意を寄せていることを告白するのだが、サマーは「友達になりましょう」と言うだけであった。34日目、イケアで新婚夫婦ごっこをしたり、ランチピクニックをしたりと徐々に親密になっていく二人だが、期待するトムに対してサマーに「真剣に付き合う気はないの」と言われてしまう。そしてトムは、不本意ながらも「気軽な関係でいいよ」と妥協してしまう。

そして109日目、サマーの部屋に招き入れられたトムは、サマーとの関係が一気に進展したと感じるのだが……。

 

個人的には、この映画のバランスがこの記事で紹介する映画の中で、最も好みです。この映画は、脚本家の実体験が元になっています。主人公のトムが、サマーと過ごした500日間をランダムに見せていくという、ある種ミステリー的な構造が、現実における恋愛についての記憶の思い出し方と非常にマッチしています。そして、トムは「運命の人」と言う概念を信じる恋に恋する青年。対してサマーは「永遠の愛など無い」と言い切ってしまうリアリスト。この2人の関係性はとても魅力的でもあり、切なくもあります。監督はMV出身で、この映画が長編初監督作のマーク・ウェブ。この映画も、随所にMV的な画作りをしているシーンがあります。特にそれが顕著なのが、トムがサマーと初めて性行為をした後の翌日の朝。うれしくてしょうがない彼は、町の人たちとともに、笑顔でダンスするという、ミュージカル的なシーンがあります。このシーンは、彼の心の中がバラ色になったことを視覚的に表現している見事なシーンですが、非常にMV的な撮り方をしています。マーク・ウェブ監督は次作の「アメイジングスパイダーマン」及びその続編でも、主人公とその彼女の関係性や、MV的な画作りをそのまま発揮しています。スパイダーマンと言うキャラクターの青春面を強調した映画として、よくできた映画です。「(500)日のサマー」のラスト付近のやりとりは、非常に秀逸です。トムとサマーが最初に抱えていた恋愛観が完全に逆転した後、お互いが違う道を歩きだし、新しい「1日目」が始まってゆく。非常に綺麗な、落語的な落ちだと思います。オールタイムベスト更新レベルで大好きな映画です。未見の方は、ぜひ観てみてください。さて、次に紹介する映画は、この映画を「陽」とすると間違いなく「陰」に属する作品です。

 

君と僕 2人がいる限り「ブルーバレンタイン

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  結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。

努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった……

 

この映画が、数ある恋愛映画の中でも、何故最も強烈で、トラウマになるほどの衝撃を受けるような傑作と言われているのか。それは、この映画は「結婚7年目の倦怠期の夫婦が、ついに離婚してしまう2日間」と「2人が出会い、恋に落ち、結婚するまでの数週間」を交互に見せていくという、胸を抉られるような構成だからです。しかし、どちらかに問題があったから別れてしまうといった安直な物ではなく、どちらにも美点があり、魅力的な人物なのだが、その裏返しとして、欠点も存在する。といった、一方的な結論を導き出せないような人物造形が、これ以前の恋愛映画とは決定的に違う点であり、この作品がここまで語り継がれる所以なのです。

http://www.outsideintokyo.jp/j/review/derekcianfrance/

離婚した両親を親に持つデレク・シアンフランス監督が子どもの頃に最も恐れていたのは、"両親の離婚"と"核戦争"だったという。前者に関しては、それが正に本作のテーマとなっているわけだが、後者に関しては、まるで"核シェルター"のように閉ざされた"未来の部屋"の造形に反映されている。そのことは、"核の恐怖"が現実のものとなってしまった3.11以降、隔離される"ゾーン"を生み出してしまった私たちの暗い現実と奇妙に呼応する。

共同脚本を務めた3人(デレク・シアンフランス監督、ジョーイ・カーティス、カミ・デラヴィーン)の内2人が、両親の離婚を経験しているという本作の物語には、彼らの実体験が濃厚に暗い影を落としてはいるものの、行き詰まってしまった"現在"と無邪気なロマンスに満ちていた"過去"をほぼ同等のバランスで扱っているところに、映画作家のロマンティックな資質が顕われている。

 

 この映画をより切なくしているポイントとして、EDが挙げられます。2つのパートの間に起こった結婚生活の思い出が、花火となって打ちあがる、非常にロマンティックなEDです。離婚と結婚の瞬間が交差するラストの後にこんなEDを持ってくるとは、どこまで意地悪なのでしょうか。そんな残酷さも含めて、僕はこの映画が大好きです。

 

夢追い人に乾杯を「ラ・ラ・ランド

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夢を叶えたい人々が集まる街、ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミアは女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末の店で、あるピアニストの演奏に魅せられる。彼の名はセブ(セバスチャン)、いつか自分の店を持ち、大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合う。しかし、セブが店の資金作りのために入ったバンドが成功したことから、二人の心はすれ違いはじめる…

 

2017年でも屈指の話題作であり、一般層にも大ヒットしたミュージカル映画です。

監督は「セッション」で注目された新星デイミアン・チャゼル 主演はエマ・ストーンライアン・ゴズリングの黄金コンビ。アカデミー賞では最多6部門受賞と、話題に事欠かない作品です。この映画、素晴らしいシーンがたくさんあります。オープニングの高速道路での超絶ワンカットシーン。丘の上でダンスするミアとセブ。オーディションでの鬼気迫るミアの歌声等々ありますが、僕が最も心を動かされたのは、やはりラスト15分の「もしも」のシーンです。あそこで完全にやられてしまいました。「マルホランド・ドライブ」的な走馬灯演出は、非常に幻想的で、「巴里のアメリカ人」「シェルブールの雨傘」といった、この映画のもとになったミュージカル映画のエッセンスが漂う名シーンであると思います。そして、別れた2人が再び出会い、また笑顔でそれぞれの人生を歩み始める。あの笑顔一発で涙腺決壊です。ハリウッドが本気で「セカイ系」を作ったらどうなるか。それを教えてくれた気がします。

まとめ

この記事における作品のサブタイトルは、どれも劇中に流れる音楽の歌詞から引用しています。ここまでで紹介した4本の映画の内、500日のサマーを除く3本に共通する点として、客観的には悲劇的な結末を迎えてしまう恋愛を扱っていますが、では2人は出会わなければ良かったのか?と言われれば違うと思います。なぜならば、2人での思い出はつらい思い出だけではないからです。紹介した4本の映画は、どれもその側面をきっちりと描いています。個人的には、「恋愛映画」とは、恋愛とは何か?と言うことを問い直す物であると思います。その面から見ても、批評として機能していなければ意味がないのです。男女がイチャイチャするだけでは、ドラマとして不十分であり、全く心に残りません。やはり僕はぬるま湯よりも刺激的で、自分の人生を顧みて、いつまでも心に残るような体験を求めているのでしょう。ハードコアで刺激的な作品こそが、僕の理想なのです。では、これでこの駄文を終わりたいと思います。