それでも映画は廻っている

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「青ブタ」という事象を観測する オマージュが織りなすセカイ系の相対化と再定義 「バニーガール先輩」から「迷えるシンガー」までの夢を見ない

今回は、僕が人生で初めて大ハマりしたと言っても過言ではないライトノベルシリーズ

青春ブタ野郎シリーズ」について書きたいと思います。このシリーズは、たかがライトノベルと侮ってはなかれ、恐ろしく練り上げられたストーリー 随所に配置されたオマージュ 誰もが愛おしいキャラクター これら全ての要素が最高純度で詰め込まれたとんでもないシリーズなのです。その魅力をこれから書いていこうと思います。それでは、本文をどうぞ

注意 この記事には、「青春ブタ野郎シリーズ」の1~10巻に関する内容及び、それらがオマージュしている作品群に関するネタバレが含まれます。特に5巻以降の感想は絶対に未見の方は読まないでください。

 

 

序文 青春ブタ野郎はSOS団の夢を見ない

まずは、シリーズ全体についての話をしていこうと思います。このシリーズ全体のざっくりとしたプロットを説明しましょう。主人公は、峰ヶ原高校2年1組。出席番号1番。梓川咲太。彼は、過去の噂のせいで周囲から孤立しているが、周りの空気に流されず、2人の友人と共にありふれた日常を過ごしていた。ある時、図書館で同じ学校の先輩、桜島麻衣と遭遇したことから「思春期症候群」と呼ばれる怪異に巻き込まれることになる。というのがおおまかなプロットです。基本的には、このシニカルな男子高校生咲太君の視点で物語は進行していきます。各巻ごとにメインとなるキャラクター及びヒロインが存在し、彼女たちとの関係性の構築によって物語は進んでいきます。ここまで書けば、ライトノベルと言うジャンルにはよくある話だと認識されるかもしれませんが、このシリーズの最大の特徴は、”よくある”というくくりに嵌めるには失礼なほどに計算され、膨大に詰め込まれた過去の作品群へのオマージュと、「コミュニケーションとは何か」を巡る、非常に現代的な事柄を絡めながら提示されるテーマ性の妙であると思います。まず連想するのはやはり谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」でしょう。斜に構えた男が、運命の女との出会いによって、怪異に巻き込まれていく”SF” 青ブタという作品に僕が最初に感じた印象は「2010年代に登場した涼宮ハルヒ」というものでした。各巻ごとに示されるモチーフは、SFファンをにやりとさせるようなディティールに満ちています。それと並行して語られる思春期というモラトリアムならではの問題意識、コミュニケーションへの批評は、非常に普遍的なものであるといえます。この点が、この作品が持つ「矜持」の現れであると思います。そしてそれが、日本エンタメ史の相対化と批評に逆説的に到達しているのです。さて、それでは各巻ごとの詳細な感想を語っていこうと思います。

 

本論 各巻感想

第1巻「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」

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メインキャラクター 桜島麻衣 

思春期症候群 「存在の消失」

周りの空気に流されない男 梓川咲太が図書館で出会ったのは、バニーガール姿の女子高生、天才子役としての過去を持つものの、現在は引退状態にある女性 桜島麻衣。彼女の存在は、咲太以外には認識されず、徐々にその範囲も広がっていってしまう。彼女の存在は「シュレディンガーの猫」のように、観測者なしではその存在を確定できない。そして、観測者であった咲太すらついにその存在を忘れてしまう。だがテスト勉強で漢字を一緒に勉強したことがトリガーとなって、咲太は麻衣の存在を思い出す。そして、彼女の存在を世界に観測させるために、全校生徒の前で咲太は麻衣に告白をする。そうした結果、彼女の存在は無事に世界に認識されるようになる。

記念すべき第1巻。まず、この第1巻の出来が非常に素晴らしいからこそのシリーズだと言える。このシナリオの時点で、オマージュは数多い。そもそものタイトル「青春ブタ野郎は○○の夢を見ない」からして、フィリップ・K.・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見ない」であるのは分かり易いあたりだが、お話はむしろ同じフィリップ・K・ディックでも「流れよわが涙、と警官は言った」のオマージュではないだろうか。「流れよわが涙」は、世界に自分の存在した証拠がある日突然消えてしまう人の話であるが、まさにこの第1巻の内容そのままである。また、主人公の梓川咲太はバニーガール、即ち「ウサギ」に出会ってからめくるめく奇怪な体験を経験することになるが、これはルイスキャロルの「不思議の国のアリス」だろう。また、この第1巻はある種の「セカイ系」へのアンチテーゼとしても機能しているのが面白い。つまり、男女の恋愛関係と言う名の内向きの「セカイ」に引きこもる話ではない。そもそもの思春期症候群の発生の要因が、桜島麻衣を”いないもの”として扱う周りの「空気」という点なのも非常に面白い。クライマックスの告白は、「世界」に居場所を作るための行為であり、「セカイ」の否定なのである。このテーマ性はこれ以降にも脈々と引き継がれることになる。

咲太は告白の一か月後、麻衣から正式にOKをもらうことに成功するも、その日の翌日は、告白をする日に戻ってしまっていた。この事象の原因は何なのか?……

 

第2巻「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」

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メインキャラクター 古賀朋絵

思春期症候群 「同じ一日を繰り返す」

ループ現象の原因は、高校の後輩 古賀朋絵が引き起こす思春期症候群であった。朋絵はとある事情で3年の前沢からの告白を回避しなければならない状況にあり、回避するまで同じ日を繰り返していた。咲太は朋絵に頼まれて、嘘の恋人関係を演じることになる。だが、朋絵は自分を巡る咲太と前沢の喧嘩やデートを経て、咲太に対して恋心を抱くようになる。嘘の恋人関係を解消する約束だった一学期の終業式の日を終えるも、本心では別れたくない朋絵が再び思春期症候群を発症して今まで抑えられていたループ現象が再び始まってしまう。4回のループの後、朋絵を咲太が振ることによって、この思春期症候群は収束する。そして、咲太の前に「初恋の人」と同姓同名だが、年齢は低い少女 牧之原翔子があらわれる。

ここへきて定番ジャンル「ループ物」が来るわけだが、この2巻は特にシナリオの構成がクラシカルなジャンル本来の魅力に満ちている。ループ現象の原因が当事者の精神の乱れにあるという設定は谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」や、押井守うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」ハロルドライミス「恋はデジャ・ブ」といった作品群を非常に連想させる。ループ物というジャンルはともすればセカイ系と密接にコミットしてしまう危険性を孕んでいるが、ここでは、咲太があくまでも麻衣を選ぶという選択によってそれを回避している。何故ならば、このシリーズにおいて桜島麻衣は一貫して「”世界”で得られる幸せ」の象徴であるからだ。このシリーズは、”運命の女”の役割を持つ女性が2人いるという特異なシリーズであるが、後々にこの「世界」と「セカイ」の二者択一というシチュエーションが最悪の形で反復されることになる。それはまたその時に。

 

第3巻「青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない」

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メインキャラクター 双葉理央

思春期症候群 「ドッペルゲンガ―の出現」

咲太は科学部の友人である双葉理央が2人に分裂する思春期症候群を発症していることを知る。理央の親しい友人である咲太と国見佑真は二人とも彼女がおり、理央は独りになってしまうという不安から、誰かにかまって欲しくてSNSで性的なものを漂わせる写真を上げ始める。その結果、誰かにかまってほしい理央とそのための手段を許さない理央の二つの存在に分裂してしまった。海岸で花火をして夜を明かした咲太と理央と国見の写真を見たもうひとりの理央は、自分の存在が要らないと考え失踪してしまう。しかし、咲太の言葉に気持ちを変えられた理央は電話を介してもうひとりの自分と話すことで、一つの存在にもどることができた。その後、理央は、国見へと想いを伝え、自分の気持ちに折り合いをつける。

青ブタの巧さが良く表れた巻である。何故ならば、ドッペルゲンガ―現象を女子高生の「裏垢」と結びつけるという非常にクレバーなアイディアに基づいた話だからだ。ドッペルゲンガ―現象が当事者の性的な事柄のメタファーである点はドゥニヴィルヌーヴ監督の「複製された男」に近い。双葉理央というキャラクターが抱える葛藤も非常に胸を打つ物語に仕上がっている。寓話としての側面が最も強い巻であった。

 

第4巻「青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない」

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メインキャラクター 豊浜のどか

思春期症候群 「精神の入れ替わり」

夏休みが終わり、2学期の初日。麻衣に声をかけた咲太は、何かがおかしいことに気付く。麻衣と体が入れ替わってしまった麻衣の腹違いの妹 豊浜のどか。麻衣と彼女はある日大喧嘩をしてしまい、思春期症候群の解決のために、咲太は2人を仲直りさせようと奔走することになる。咲太はのどかに、麻衣が「宝物」として大切に保管していた何通もの麻衣宛てののどかからの手紙を見せる。そして麻衣との仲直りを経て「麻衣のようにならなくてもいい」ことをのどかが知った瞬間、思春期症候群は解決し二人の体は元に戻った。

この巻は正直なところ、「置きに行った」感が強く、良く言えば無難 悪く言えば凡庸な話になってしまっている。入れ替わりものと言えば大林宣彦の「転校生」だが、あちらと違って入れ替わりそれ自体による面白さではなく、あくまでものどかと麻衣という姉妹のディスコミュニケーションを解消する話に仕上げているのは実に青ブタらしいが、ティーン向け小説の域を出ていないほどにキャラクターの葛藤が今までの比になく類型的なのはやはり気になってしまう。だが、この次の巻から、恐ろしく凄まじい展開が連続するので、この巻はさながら嵐の前の静けさといった趣だろうか。

 

第5巻「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川かえで

思春期症候群 

咲太の妹 梓川かえでは、中学時代に受けたいじめが原因で、「家好き」少女になっている。かえでは家好きを克服するために「お兄ちゃん以外の人と電話をする」などの目標を立てる。そして、何とか外に出ることができるようになってきたかえでは、昔の幼馴染の鹿野琴美と再会するも、覚えていないと言う。そこから、かえでに隠された秘密が明かされる。咲太の妹 梓川”花楓”は、いじめが原因で解離性記憶障害を発症し、それまでの記憶を消去し花楓の中に新たな人格を形成した。そのショックに耐えかねた咲太が訪れた海で「初恋の人」牧之原翔子に価値観を変えられ、花楓に「梓川かえで」として生きることを提案した。琴美からの手紙を見て意識を失ったかえでは病院に救急搬送されるも無事であり、やがて退院することができた。しばらくして咲太と動物園に行ったかえではその日に学校に行くこともでき、すべての「今年の目標」を達成することができた。しかし翌日、目を覚ましたのは花楓だった。花楓の入院する病院から抜け出して病院の外でどうしようもない気持ちを叫ぶ咲太の前に現れたのは、2年前に海で会った翔子から2歳ほど歳をとった翔子。その翔子からかえでが「今年の目標」を立てた理由を聞いた咲太は、かえでを失った悲しみを抱えながらも現実と向き合う努力を始める。

青春ブタ野郎シリーズ史上、最も哀しい話であると思う。1巻から登場し、マスコット的なかわいさを発揮してきたかえでという存在に秘められたあまりにも重い過去が明かされる。しかも、1巻の時点で伏線は存在していたという用意周到ぶり。この巻から目立つのは、小説と言う媒体を生かした演出である。「かえでは『花楓』じゃなくて、『かえで』だから」というセリフのような、文字でしか伝わらない感動を与えてくれる場面が多く出てくる。その極致と言えるのが、クライマックスのかえでの日記の朗読シーンであろう。この場面を読んでいるとき、涙で文章が読めなかった。この文章を書いている今も思い出して泣いている。何故あのシーンがあそこまで感動的なのかと言えば、「見る、見られる関係の逆転」が起きているからだ。是枝裕和の「そして父になる」のクライマックスのカメラのシーンと同様である。「覚めない夢の続きを生きていた」少女とのあまりにも哀しい別れ。咲太の凄まじいメンタルには感服するばかり。しかし、これだけでは終わらない。この話を超えるハードな展開を見せるのが、次の巻である。

 

第6巻「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」

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メインキャラクター 牧之原翔子

思春期症候群 「タイムトラベル」

クリスマスまで1ヶ月をきったその日。花楓の一件の後、咲太と翔子は同棲状態だったが、そこに麻衣が現れることによってちょっとした修羅場になってしまう。そんな中、中学生の翔子が心臓の病状の悪化により入院していることが発覚する。そこから、大人の翔子の秘密が明かされる。彼女は、中学生の翔子の「大人になりたくない」という気持ちが生んだ思春期症候群によって、先の未来の時間からやってきた存在だという。彼女の目的はただ一つ。2014年12月24日 交通事故によって死んでしまう運命にあった「初恋の人」咲太を、自分に心臓を託してくれた咲太を死の運命から救う事。これを聞いた咲太は、自分が生きて翔子が死ぬか、自分が死んで翔子が生きるか。という2択を迫られる。咲太は後者を選択し、事故現場に向かうものの、咲太が死ぬことはなかった。咲太を庇って、麻衣が事故の犠牲になってしまった。

とんでもない展開を見せるこの6巻。ここで前述した「世界」と「セカイ」の二者択一が再び迫られる。つまり、「世界」の体現者たる桜島麻衣と、「セカイ」の体現者たる牧之原翔子。どちらを選びとるのかと言う選択だ。そもそもこの翔子の動機からして非常にセカイ系的、もっと言ってしまえば、日本人的な発想のもとでのタイムパラドックスである。6巻と7巻は事実上の前後編なので、扱われている事象は同一である。僕が何よりもグッとくるのは、この最後の最後で扱われるのが「タイムトラベル」という、日本エンタメ史において非常に重要な位置を占めるジャンルだということだ。僕が以前この記事(http://slyuroder.hatenablog.com/entry/2017/05/28/133751)で指摘したとおり、日本のエンタメとは「出会いと別れのセンチメンタリズム」に終始する。それを非常に表現しやすいジャンルこそが、タイムトラベル物だ。さらにそれこそ、「難病もの」こそがその極致と言えるだろう。だが、人の死をポルノ的に消費する難病ものを主題に置くのではなく、自己犠牲をいとわないタイムパラドックスによる過去改変という展開を作りやすいタイムトラベルものにしたあたりが、このシリーズの信頼できる点であろう。衝撃的なラストで幕を閉じるこの6巻。いつもは存在するあとがきがないこともこの地獄の余韻を増幅させてくれる。果たして、どのように物語は帰結するのか。

 

第7巻「青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川咲太

思春期症候群「タイムリープ

麻衣の死によって、呆然自失の日々を送る咲太。麻衣の告別式の日 咲太の目の前に現れたのは、消失したはずの牧之原翔子。彼女は改変によって麻衣の心臓をもらい、生き延びていた。翔子は咲太を誰もいない峰ヶ原高校へと導き、咲太自身が翔子と同じ思春期症候群を発症していることを告げる。そして、麻衣を救うために、咲太はもう一度12月24日へと戻ることになる。そこから咲太は、観測者がいないために誰からも認識されない状況に追い込まれるものの、古賀朋絵のおかげで観測される。そこから、過去の自分へ連絡を取り、麻衣が死ぬ未来を変えようとする。結果、無事に麻衣と自分を事故から救うことに成功する。そして、咲太は気づく。未だ翔子の思春期症候群は終わっていないことに。正確には「咲太たちが生きている時間軸が実は未来であった」ことに気付く。咲太は、3年前の「今」を生きる小学校4年生の牧之原翔子を救うため、「現在」の中学校1年の牧之原翔子の元に向かう。そして、世界は改変された。牧之原翔子という存在が、咲太に出会わなかった世界に…… この世界線でも、咲太は麻衣たちと出会い、人間関係を構築していた。この世界線の麻衣は中学時代に心臓病の少女を演じ、以前の世界線で翔子が鳴っていた病気に光が当たっていた。そして、七里ガ浜海岸、咲太が初めて翔子と出会った場所に、一組の家族を見つける。そして、咲太は知らないはずの名前を呼ぶ「牧之原さん!」それに、翔子は答える「はい、咲太さん!」

完璧だ。完璧である。この第7巻で、「青春ブタ野郎シリーズ」は日本エンタメ史にその名を刻む完璧なシリーズになったのである。まず素晴らしいのが、この第7巻のシナリオが、それまでの6巻分の展開すべてをなぞっていると言う点。咲太は「存在が認識されなくなる状態」で「一度経験した日を繰り返す」そのなかで、「もう一人の自分」と邂逅し、「入れ替わろうと」する。そして掴み取った未来で、ハツコイの人、牧之原翔子の「記憶を持って生きていく」それを糧に「未来で再開する」本当に巧みな構成である。そして、この巻においては、牧之原翔子の役割は咲太を「世界」に導く役割となっていて、役割が反転している。それはなぜか。この世界線においては、翔子の心臓は「世界」の体現者 桜島麻衣の心臓であるからだ。6巻での理央と咲太の会話で示されていたとおり、心臓移植をするとドナーの性格に似通るという事例を、咲太の性格を構成するためのタイムパラドックスと言う事例だけに収まらず、この巻でも非常に象徴的に活用している。SF要素も過去最高峰のクオリティ。時間とは、各個人の「認識」でしかないという価値観は、テッドチャンの「あなたの人生の物語」を連想させる。しかもそれは、1巻から繰り返し描いてきた思春期特有の「空気を読む」という行為に象徴されるコミュニケーションへの認識の問題とも見事に符合する。そして、オマージュのキレ味も実に鮮やか。青ブタの舞台は、2014年の神奈川県藤沢市近辺(筆者の地元です)であるが、咲太が過去に戻る日付は、12月27日。2014年の12月27日は「土曜日」である。そして、土曜日の学校の「実験室」へ向かう。もうお分かりだろうが、これは筒井康隆の「時をかける少女」のオマージュである。最後の最後で日本エンタメ史の最重要作の一つへと、しかもカレンダーを自分で調べなければわからないという巧妙なやり方でオマージュをささげるというのは非常にグッとくる。また、死んでしまった愛する女性を救うために過去へ戻る男の話というのも、「バタフライエフェクト」や「シュタインズゲート」等を思い起こさせる。一番近いのはトニースコット監督の「デジャヴ」であるとは思うのだが。そして、この作品の最終的な結末は、この作品独自の、非常に優しい結末である。まず、事態の発端となる咲太の思春期症候群が引き起こされる原因は、咲太の「弱さ」故である。しかしそれを、夢のような存在である翔子は優しく肯定してくれる。未来を変える糧として。ここでまた素晴らしく巧い展開が待っている。1巻では眠るという行為は、麻衣を忘れてしまうという行為だったのが、この7巻では、麻衣を救うために眠るのである。この巻は1巻との対比が良く目立つ。表紙の構図と色が同じなのも気が利いている。咲太がウサギの着ぐるみを着るのも、麻衣のバニーガール姿の対比であるということと同時に、麻衣という「アリス」を導き出す「ウサギ」に、咲太自身がなるという反転である。そして、そこから先こそがこの作品の凄まじいところである。終盤、咲太と病床に伏している翔子との会話シーン。ここまで追い込まれてもなお咲太を想う翔子の姿に、そして将来スケジュールに”花丸”をつけてあげる「優しさ」には、ここまでで枯れるほど涙を流している自分も涙を止められなかった。そして、その「優しさ」をもって、誰かが幸せになる未来を願い続けた者たちへの賛歌として、あの大団円のラストがある。「魔法少女まどか☆マギカ」を彷彿とさせる新世界の創造だ。6巻で描かれた「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」という普遍的命題は”夢がない”ものかもしれなかった。しかし、人は、将来への願望を夢見ることによって、誰かの幸せのために生きようとする。まさに「夢追い人へ乾杯を」である。この物語は最終的に「世界」と「セカイ」が一つにつながって終わる。これは、「エヴァ」以降の日本製エンタメがおこなってきた非常に内向きな自我の内部化とは対照的に、とても外側に向いた結論である。したがってこれは、ご都合主義と揶揄されるような展開では断じてない。セカイ系を相対化し続けてきたこのシリーズが辿りつく必然なのである。ポールトーマスアンダーソンの「マグノリア」に匹敵するほどの、全てが救済される大団円。本当に見事だった。この作品に出会えたことを、心から感謝する。

 

第8巻 「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川花楓

思春期症候群

牧之原翔子を巡る12月が過ぎ、咲太は高校2年生の3学期を迎えていた。麻衣と共に自分の進路を考え始める。そんな中、咲太の妹である梓川”花楓”は、咲太と同じ峰ヶ原高校への進学を望む。咲太たちは人と接するのに慣れていない花楓を心配し、通信制高校という進路も提示する。しかし、花楓は峰ヶ原高校の受験の途中で体調を崩してしまう。それでも尚花楓は峰ヶ原高校に拘る。何故ならば、自分がいないときに頑張っていた”かえで”の願いであるからだった。それから、定員割れにより峰ヶ原高校に合格となるも、咲太の話や、のどかと同じスイートバレットのメンバー広川卯月との出会いを咲太にセッティングされたことをきっかけに、通信制の高校に進学することを決める。

正直、読む前は不安のほうが大きかったこの8巻であるが、蓋を開けてみれば如何にも青ブタらしい「未来へのもがき」を巡る物語であった。特に強烈なのは、花楓が保健室で咲太に慟哭する場面であろう。ここへきて、またしても”かえで”の不在が刻々と浮かび上がる。この巻では敢えて思春期症候群と言ったSF的要素はなりを潜め、一人の少女が自分の意志でもって、過去に存在したらしき「もう一人の自分」への感謝と、その遺志を引き継ぐ物語として。そして、それを片時も離さず見守ってきた「観測者」が、ようやくその任を終える、旅立ちを見送る物語として。実に堂々とした人間ドラマを物語っている。シリーズの円熟を感じる巻であった。

 

第9巻 「青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない」

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メインキャラクター 梓川咲太

思春期症候群 「パラレルワールド

記憶が戻った花楓とともに久しぶりに母親と対面することになった咲太は、かつて麻衣が体験したのと同じような、自分の存在が他者から認識されなくなる思春期症候群にお陥ってしまう。それは、自分自身が母親という存在をいないものとしていたことが原因であった。その時、麻衣そっくりだが小学生くらいの少女が現れる。その少女だけは咲太を認識しており、少女に導かれるうちに、気づくと咲太は違う場所、違う世界にいた。 その世界では咲太、花楓、父、母が4人で横浜に暮らし、花楓のいじめ問題は解決し普通に中学に登校、花楓も母も健康。咲太は峰ヶ原高校にて理央たちと友人のままで、麻衣とも交際しているという、絵に描いたような理想の世界だった。だがこの世界は「居心地がよすぎる」と、咲太は元の世界に戻る決心をする。咲太は再び麻衣そっくりの少女に導かれ、元の世界に戻った。 元の世界では、やはり誰も咲太を認識しなかったが、仕事で山梨県に行っていた麻衣が一日早く帰ってきて、咲太のことを見つけてくれた。麻衣に励まされた咲太は、改めて母と対面に行く。すると母が咲太に気がつき、他の皆にも認識される状態に戻った。 時間は1年後に飛び、咲太はのどかや麻衣と同じ大学に合格する。咲太は、細いフレームの眼鏡をかけた少女、赤城郁美に声を掛けられる。彼女は、咲太とは同じ中学の同級生であった…

所謂「並行世界物」という、これまたSF界における定番ジャンルを扱った巻である。”自分の存在がなかったことになっている世界に迷い込む”という点を取り出せば、米澤穂信の「ボトルネック」がまず思い浮かぶし、フランクキャプラの「素晴らしき哉、人生!」も当てはまる。また、全体のプロットからし谷川流の「涼宮ハルヒの消失」にも多大な影響を受けていることは明白であろう。この巻に於いて、咲太の胸には白い線のようなものがあることが描写される。これはわかりやすいへその緒のイメージであり、この巻のテーマが母体回帰と、桜島麻衣という「世界」そのものが内包する母性への回帰ということのメタファーである。故に第1巻の展開がまたしても反復され、この巻で咲太の高校生活は終わりを迎える。次巻からは大学生編が始まる。

 

第10巻「青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない」

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メインキャラクター 広川卯月

思春期症候群「精神の変容」

大学に通い始めて半年。咲太は泣きボクロを持つ女性、美東美織と出会ったり、相変わらず麻衣とは交際を続けたり、理央や朋絵、のどかといった友人たちと思春期症候群とは無縁の平和な日々を過ごしていた。ある日、同じ大学に通うアイドルグループ、スイートパレットのセンターであり、花楓の一件で知り合った少女、広川卯月の様子が変わった。いつもマイペースで天然、テンションが高いことで知られる彼女が、突如「空気を読んで」周囲に自分を合わせるようになった。違和感を覚える咲太やのどかをよそに、他の学生は彼女の変化に気がつかない。同時に「空気を読む」ようになった卯月は「私も、みんなに笑われてたんだ」と、空気の読めない自分が周囲からどのように見られていたかに気がつく。 ネットで話題のバーチャルシンガー、霧島透子の曲をカバーしたワイヤレスイヤホンのCMに卯月が出演していることも話題になり、それを機に卯月のソロデビューやスイートバレットからの卒業が囁かれるようになる。 卯月のことを話しつつのどかと一緒に大学に向かう途中、大学から離れていこうとする電車に乗る虚ろな表情の卯月を見かけた咲太は、咄嗟のことに追いつけないのどかを置いて、三崎口まで卯月を追いかけついて行く。咲太と卯月は三浦半島を散策し、卯月は「武道館を目指すこと」が難しいと感じるようになった胸中を吐露する。 その週末麻衣と共に、お台場で行われたスイートバレットのライブを見に訪れた咲太だったが、ライブの最中、突然卯月の声が出なくなってしまう。他のメンバーにフォローされ、かろうじてその日のライブを乗り切った皆だったが、ライブは翌日にも控えていた。八景島で行われた野外ライブに、卯月抜きの4人で行われることになったスイートバレットのライブをひとり見に訪れた咲太は、観客の中に卯月を発見。彼女はもう声が出せるようになっていることを見抜いて話しかける。武道館を目指して楽天的に皆を引っ張っていた卯月だったが、そんな自分の中に、報われない努力をするスイートバレットのメンバーを嘲る心があったことに気づいて罪悪感を抱き、ステージに上がることを躊躇する。だが、降雨と機材トラブルに見舞われながらも舞台に立つスイートバレットのメンバーを見てステージへと上がった。卯月はステージにて、ソロデビューすることと同時に、スイートバレットも卒業せず武道館を目指すことを宣言した。 ライブの翌日、卯月は、咲太と同じ統計科学学部に進学した目的を、「自分と異なる他者を理解することによって自分に向き合う」ためであることを告げ、大学を退学し、作太に別れを告げる。咲太は卯月を「卒業おめでとう」と送り出す。その直後咲太は、サンタクロースに扮しているが、咲太以外の誰にも認識されていない女性に話しかけられる。彼女は自分を霧島透子と名乗った…

この第10巻が今までの巻に増して引用やオマージュが多い巻であったことに、僕は読んでいる最中狂喜乱舞してしまった。まず今回の思春期症候群は超絶ライトにした「アルジャーノンに花束を」や、デヴィッドクローネンバーグ作品的だといえる。自分の中の精神の変容によって、他者との軋轢が生まれていく物語。そこから実に青ブタらしい「モラトリアムの時期に起こる自己と他者との間に生じるコミュニケーションに対するジレンマをSF的ディテールに象徴させる」という展開が待っている。今回メインとなるのは広川卯月という「わたし」と「みんな」の世界認識の相克であるが、自己のアイデンティティーが他人に認められないという恐怖と、それに伴う諦めは、非常に普遍的な若者の悩みであり、言ってしまえばベタなテーマだ。この巻の最初に、劇中に登場する謎のバーチャルシンガー 霧島透子の歌う歌の歌詞が引用されるが、それがそのまま今回の物語のテーマそのものを言ってしまっている。

どこからどこまでが僕なんだ

ねえ、教えてよ

誰かの声、耳の奥に響いて

境界線は溶けて消えた

ひとつに混ざったみんなに僕はなる

いけないことなの、ねえ

 

霧島透子「Social World」より

特に重要なのは「ひとつに混ざったみんなに僕はなる」という部分。空気を読むことによって個人が謀殺されるという今回の思春期症候群の説明であり、伊藤計劃の「ハーモニー」が、思い起こされることばなのだ。「ハーモニー」は、個人の意識が消失することによって理想郷を作ろうとする少女の物語であった。確実に影響を受けているはずである。

<null> さよなら、わたし。

さよなら、たましい。

もう二度と会うことはないでしょう。</null>

 

伊藤計劃「ハーモニー」より

また、今回の物語の中で、もう一つ強烈なオマージュをしている作品がある。それは、イングマールベルイマンが1966年に撮った映画「仮面 ペルソナ」である。

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この映画は、失語症の女優と彼女の世話をする看護士が、海辺の別荘で療養生活を送る過程で、互いの精神が混ざり合っていく。という物語だ。もっと踏み込んだことを言えば、他人を演じることに憑りつかれ、家庭をないがしろにしている女優(=監督のベルイマン自身及び自分の体験を切り張りして映画を作るしかない映画製作者)と、彼女の横に寄り添い、彼女に自分を演じられてしまう看護士(映画製作者の異常な苦しみを伴う体験が刻印された”映画”を目撃し、自己の人生に投影する観客そのもの)の相克を描いた物語である。そして、この「青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない」に於いて、広川卯月は失語症になり、霧島透子の歌う曲をカバーする=彼女を”演じる”ことによって思春期症候群(精神の変容=モラトリアムの終わり)を迎え、「みんな」という”他者”の「空気を読み」、それらと”同化”しそうになる。この展開の一致が偶然だといえるだろうか。僕が前述した「ハツコイ少女の夢を見ない」での非常に周到な「時をかける少女」オマージュの前科もある鴨志田一氏なので、おそらく意図したものだと思われる。彼女が最終的にする決断…「空気の読めない」”わたし”になる。「みんな」と違う”わたし”に改めて生まれ変わるという、感動的なイニシエーションの物語としても、この巻は新章開幕にふさわしい王道のストーリーテリングを見せてくれた。また、咲太たちの統計科学学部への進学理由も、セカイ系的な怪異を経験した人間ならではの相対的視点を示していて、このシリーズ特有のセカイ系へのある種シニカルとさえ言える距離感を表しているのも、大変重要であり、見逃してはいけないディテールだと感じた。次巻へのクリフハンガーが毎回上手いのがこのシリーズであるが、次回以降、さらなるSF的どんでん返しが待ち受けている予感がする。早く第11巻が読みたいものだ。

 

補論 アニメ版のお話と言う名の「the peggies」のお話

この「青春ブタ野郎シリーズ」は、2018年10月からアニメが放送されている。アニメ版は非常に頑張ってはいる。特に声優陣はどれも非常にハマっていると思う。しかし、やはり原作の情報量の多さは完璧には再現しきれていないという印象なのは否めない。しかし、このアニメの制作陣は、この原作が持つサンプリング感覚と言うものを分かっている。そう感じるのは、アニメ版の主題歌に「the peggies」を起用したことだ。the peggiesとは、3ピースのガールズバンドである。非常にポップな曲調が素晴らしく、僕もファンなのだが、彼女たちもまた、非常にサンプリングとオリジナリティのバランス感覚が見事であると思う。もっと俗っぽく言えば、全体に漂う「チャットモンチー感」と彼女たち独自のセンスの折衷が良くまとまっているのだ。例として、彼女たちの「ボーイミーツガール」という曲の1番の歌詞を引用する

 

退屈な毎日に急かされるように
僕は君に出会って恋をした
「ボーイミーツガール」
弾け飛んだ檸檬のような爆弾を
抱えた僕は出来損ないのヒーロー

窮屈な毎日に殺されぬようにと
僕は君に向かって叫び続けた
「アイラブユー」
このままさ何処かへ行ってしまおうかって
掴んだ腕まだ引っ張れずにいる

透き通った毒を
吸い込んで身体中を駆け巡るみたいな衝動、僕の中を走れ!

歌いたくもないラブソング歌ってまで君にこの想いを伝えようとしてる
恋はいつだってナイフになって
僕の心を切り刻むだけ切り刻んで過ぎ去って行くんだ、だから
ハートは真っ赤に染まっていく

 

 僕が指摘したいポイントは2つ。1つ目は「檸檬のような爆弾を」という歌詞。これはおそらく梶井基次郎の「檸檬」という小説から持ってきたのではないか。2つ目はサビの「歌いたくもないラブソング歌ってまで君にこの想いを伝えようとしてる」という部分。つまり、ラブソングというものはすでに”歌いたくないもの”になっていて、それを歌ってまで想いを伝えるという事だが、ここで、既存のラブソングの相対化と、ラブソングと言うものの在り方を再定義しているのだ。つまり、これらの要素は僕が今まで散々書いてきた「青ブタ」というシリーズが行ってきた「オマージュの果てのセカイ系の相対化と再定義」をこの楽曲の時点で果たしているということである。これほどまでに青ブタの主題歌にうってつけな人材はいないだろう。そこで、彼女たちが歌っているテレビアニメのOP「君のせい」だが、これが見事なまでに桜島麻衣と言う人間が、梓川咲太にどういう想いを抱いているのか。と言うことをこれ以上なく説明する曲なのだ。

 

 

 

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
君のせいだよ

少し伸びた前髪に隠れてる君の目
ちょっとどこ見てんの?こっちに来て!
君が私を夢中にさせるのに難しい事は一つもない

夕方の駅のホーム 波の音
黙る私を見透かしたように
そんな風に笑わないで

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
こんなはずじゃないのに
君のせい 君のせい 君のせいで私
誰かを嫌いになるの?
こんな夜は胸騒ぎしかしないよ
ハートのマシンガン構えて
余裕ぶっこいてる君に狙い撃ちするのさ

今も少し痛む傷 隠してる
制服脱いだって見えやしないほんとのこころ
二人並んで歩いても微妙すぎる距離感
もっと近付いてよ

最低な言葉言ってみたりした
カワイソウな女の子ってやつに
ならないための予防線

君のせい 君のせい 君のせいで私
忘れられない事ばっか
増えていって困るなぁ
君のせい 君のせい 君のせいで今ね
私は綺麗になるの

君じゃなきゃ嫌だって言いたい 今すぐ
ひとりきりの夜とずっと ここで待っていたんだよ

君のせい 君のせい 君のせいで私
臆病でかっこつかない
こんなはずじゃないのに
君のせい 君のせい 君のせいで私
誰かを嫌いになるの?
こんな夜は胸騒ぎしかしないよ
ハートのマシンガン構えて
余裕ぶっこいてる君に狙い撃ちするのさ

 

また、シングルだとこの曲の次に入っている「最終バスと砂時計」という曲がある。この曲こそ青ブタファン必聴の曲である。7巻における咲太と麻衣の関係性を「二人で幸せになるわよ」という麻衣の言葉を体現するように歌ってくれる。僕は7巻を読んだ後に改めて聞いて、号泣してしまった。

 

 

 

最終バス 走ってゆく いつもの道

いつもと同じ場所で待っててね
あなたの瞳に映るわたしを見てた
優しくいたくて 強くありたくて
 
倒れた砂時計はそのままにしとこうよ
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
描いた未来と違ったって良い
“ふたりなら 大丈夫さ!”
笑い飛ばす勇気 あなたが教えてくれた
出会った日から変わり続ける
わたしの心はあなたを吸い込んで
こうして二人は一つになるのよベイベー
 
最終バス 走ってゆく あなたのもとへ
飲みかけのコーヒー 少し冷えてきたな
 
倒れた砂時計はそのままにしとこうよ
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
うまく伝えたい いつだって
でも不器用でもどかしくて
聞いてほしい話がたくさんあるの 驚かないで
少しずつ近づいてくこの距離
絡まったまま カラフルな思いたち
ぜんぶ優しさに包んで渡すよベイベー
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
あなたへの愛はわたしの力
止めた時間動き出すよ
悲しみに暮れて迷ったって忘れないわ
雨降りならひとつ傘をさして
空が晴れるのを待とう
 
ふたり何年先もこうやって愛を歌おう
あなたに会いたい 早く会いたい
でこぼこ道をゆくよ
笑い飛ばす強さ あなたが教えてくれた
見つめるたびに変わり続ける
あなたの表情に わたしは吸い込まれてく
こうして二人は一つになるのよベイベー

 

 2019年には、6巻と7巻を映像化した劇場用アニメとして「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」が公開する。これはおそらくかなわぬ願望だが、劇場版でこの「最終バスと砂時計」が掛かってほしい。そうしたら、僕はまたしても号泣する自信がある。劇場版も素晴らしいクオリティを期待する。

 

だが、結局映画版はあまり褒めるに値しない出来であったと思っている。作画も劇場版ならではの特別なものでなく、「ゆめみる少女」のパートが前座にしかなっていないため情緒がない。さらに、「心臓移植をしたら性格がドナーに似る」という咲太と理央のやりとりがカットされているため、僕が前述した「世界」と「セカイ」の象徴性のニュアンスが完全に消えてしまっていた。これはいただけない。もちろん、「最終バスと砂時計」も流れなかった。だが、唯一良かったのは、牧之原さんによる過去改編の際、咲太のこれまで体験してきた思春期症候群にまつわる少女たちとの関わり合いが、走馬灯のように駆け抜けていく演出だ。本編の総括としても、新世界創造のロジックの説明としても大変わかりやすく、ここだけは非常に感動的であった。

 

結論 素晴らしい創作物とは何か?

ここまで長ったらしく文章を書いてきましたが、それもこれもすべてこの青ブタというシリーズが、僕の、映画 アニメ 漫画 小説 ゲーム すべてをひっくるめた中でも、人生ベスト10には必ず入るシリーズになってしまったからです。このシリーズを読んで、僕が求める創作物の姿が改めてわかりました。平たく言えば「他人事でない物語」もっと詳しく言えば「”人生”が刻印された物語」です。この青ブタというシリーズには、梓川咲太という青年が経験する、人生の楽しさ 苦しさ 悲しさが溢れています。そしてそれは、読み手である我々の人生にも共通することです。当たり前のこと言っているように聞こえますが、今の日本の創作物でこれが出来ている作品がどれほどあるでしょうか。この作品は当たり前のように非常に高尚なことをやってのけています。こういう作品には、一生で何本出会えるのでしょうか。青ブタというシリーズは、その貴重な経験を味あわせてくれるシリーズであると、胸を張って言えます。僕も咲太くんのような「優しさ」をもって生きていけるかはわかりません。ですが、彼らは確かに”生きて”います。ならば、僕も彼らのような「夢を見る」ことにしようと思います。

これでこの文章を終わります。ここまで読んでくれた方 ありがとうございます。

サブカルDA話シリーズvol3 「国民的」と「カルト的」の対比 カルト作品になるための方程式を考えるmeats「フリクリ」雑感

今回は、俗に言うところの「国民的」と「カルト的」を分けるものについて考えたいと思います。一応僕はそれなりに作品数を観ていると思いますが、数をこなすうちにだいたいの作品の構造が似ているものだと分かってきました。僕自身のためにも、それらを一度整理して文章化していきたいと思います。

 

1.カルト作品になるための必要条件

そもそも「カルト作品」とはなんなのでしょうか。ウィキペディアによれば「熱狂的ファンによる小グループによって支持される作品」のことでありますが、僕なりに定義してみると「人の人生を狂わせうる作品」であると思っています。では、世間的に「カルト作品」と呼ばれる作品をこれから何個か挙げてみます。

アタックオブザキラートマト

ある日どこかで

恐怖奇形人間

華氏451

狩人の夜

殺しの烙印

サイレントランニング

シベリア超特急

死霊のはらわた

シングストリート 未来へのうた

スパイナルタップ

スターウォーズ

太陽を盗んだ男

タクシードライバー

時をかける少女(大林版)

時計仕掛けのオレンジ

2001年宇宙の旅

ナチュラルボーンキラーズ

ハロルドとモード 少年は虹を渡る

ビックリボウスキ

ファイトクラブ

ブレードランナー

未来世紀ブラジル

ロッキーホラーショー

デヴィッドリンチの全作品

serial experiments lain

秒速五センチメートル

新世紀エヴァンゲリヲン

フリクリ

魔法少女まどかマギカ

デビルマン

ザ・ワールド・イズ・マイン

 

Category:カルト映画 - Wikipedia 他筆者の独断と偏見に基づく選定   

と、このようになりました。では、この作品らに殆ど共通する事柄を考えてみましょう。

 

先に、僕の考える「カルト作品の方程式」を挙げておきます。

  1. 舞台が限定的であること
  2. 主人公の一人称で話が進行する
  3. 論理的である(一側面において)   

まず1から。基本的に1都市、町が舞台の作品はカルト化しやすい傾向にあると思います。なぜならば、広い世界を最初から射程に入れてしまうと、”個人”の物語からは離れてしまうからです。ワンピースが「カルト」になりえないのは、最初から世界が開かれてしまっているからです。逆に、大林版時かけが「カルト」になりえたのは、尾道と言う都市を全く現実味のない人口感あふれる世界へと切り取って見せたからです。その理由の必然となっているのは、2の主人公の一人称での話の進行であると思います。思春期の少女の愛の微命の元に行われるめくるめくオカルト体験。それがあの映画の神秘性を担保していると思います。2を補強するのが3です。リンチの「ロストハイウェイ」などが顕著ですが、「主人公の内面では矛盾していない」タイプの物語は深く感情移入を”させられてしまう”のです。それこそが芸術なるものの魔力ではないでしょうか。(余談ですが、「ブレードランナー ファイナルカット版」は今挙げた1.2.3 すべてを完璧に強化してきているのが面白いと思います。特に、デッカードレプリカント説の強化によって2と3が際立っているのが面白いところ)

新海誠の「秒速五センチメートル」と「君の名は。」の関係性も面白いです。前者は男の妄念の後ろ暗い欲望を極めて詩的に描いて「カルト的」な熱狂を生んだ作品ですが、後者は監督の過去作をなぞりつつ、開かれた希望のあるオチをつけただけで「国民的」な熱狂を生み出しました。この差とはなんでしょうか。やはり、閉鎖的で息苦しい作品のほうが、熱気が高まるのは当然の事でしょう。僕は常日頃から「万人に開かれていること」は必ずしも美点ではないと思っている人間なので、「秒速」のほうに肩入れしてしまいます。そして「国民的」な作品に人生を狂わされうるということは、果たして人生は狂ったといえるのでしょうか。僕は違うと思います。何故ならば、他に狂った人の母数が多すぎるからです。偏愛という感情はバーゲンセールされるものでは無いと思います。だからこそ、ワンピースを読んで何かが変わったと思っている人間は実際に変わっているとは言えないのです。僕はファイトクラブを観て人生が変わったと確かに断言できます。観る前と後では僕と言う人間は全くの別物になっていたからです。人格や思考に影響を与えない表現など表現ではありません。僕はそれを肝に銘じて、映画製作の夢を追ってきたいと思います。さて、では次に、今回の記事を書くきっかけになった作品について話したいと思います。

2 流れ星の上に乗って 「フリクリ 

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地方都市、疎瀬(まばせ)。大人びた言動をとりたがる小学6年生のナオ太は、女子高生のマミ美と、けだるい日常を送っていた。だが、自称宇宙人の謎の女・ハル子の乗ったベスパにはねられてから、すべてが変わった。ハル子はナオ太の家に強引に居座り、彼の日常をかき回す。殴られた頭からツノが生え、そこからロボットが出現したり。あるいはナオ太が街を救う事になったり。そんな中、ナオ太はハル子に惹かれていくのだったが。 https://www.style.fm/as/07_data/flcl.shtml

 あらすじだけを見ても、前述した条件に当てはまっているのがわかると思います。舞台は地方都市。基本的に主人公に関係のない話はしません、更に、アニメーション作品のカルト化にはまたさらに多くの要素が絡まります。特にキャラクターの魅力と、作画のセンス。この2項が重要になってきます。フリクリは、この2つに長けているからこそ、ここまでの人気を得たのだと思います。しかし、僕はどうしてもこの作品に「熱狂」することが最後まで出来ませんでした。その理由は、前述の方程式の3 論理的である事という部分にあまりにも「律儀」であったからだと思います。つまり、このフリクリにある論理性や理屈は、開かれたものであるのです。4話の「バットを本番に触れるのかどうか」と言うくだりが特にそうですが、メインテーマを愚直なまでに説明する場面がやはり多いですし、設定面の説明もどこかあっさりしています。僕は事前の評判からこの作品で涙を流せることを期待していたのですが、涙は出ませんでした。このあたりが、非常にショックでした。作り手のやりたいことが手に取るようにわかり、作品を「見切れてしまう」ことがマイナスに働くなんて思いもしませんでした。ですが、この作品のおかげで、自分の作品の趣向への認識が改めてわかりましたし、今回の記事を書くことにもつながりました。そういう意味で、この作品は自分の中で重要な作品になりそうです。

あとがき

こと「フリクリ」に関しては、中学2年生の時に出会っていたら生涯ベストアニメに挙げていたであろう作品です。それだけに、今、このタイミングで「フリクリ」を見るということがこんな結果になるとは、ある意味予想外ではありました。僕は映画に「選ばれる」という感覚をとても大事にしています。カルト映画とは観る人を選ぶ映画が殆どですが、逆に言えば、選ばれた時のリターンも他の映画より大きいという事です。そんな映画に選ばれた時の気持ち良さを求めて、僕は映画を観続けるのでしょう。今後も、この経験を糧に、自分なりの作品評ができるように努力する次第です。

ここまでこの駄文を読んでくれた方 ありがとうございました。

サブカルDA話シリーズvol2 最近のエンタメ作品に感じる事と、それを忖度するための作劇論

 

はじめに

今回の記事は、筆者の個人的思想と趣味にのみ基づいて書かれました。読んでいて不愉快になるようでしたらブラウザバックしてください。

この記事のシリーズ「サブカルDA話シリーズ」の前作はこちらからどうぞ

2018年3月28日 「宇宙よりも遠い場所」についての記述を追加。

序章 エンタメ作品を観ていて感じる事

筆者は、今でこそ映画をメインに摂取するタイプのオタクであるが、3.4年前にさかのぼれば、深夜アニメしか世界を知らないオタクであった。なぜ筆者が深夜アニメを見るのをやめたかと言えば、俗に言う「美少女回転寿司」のようなキモオタに媚びたアニメしか市場に現れなくなってきたからだ。そして、更に時代が進むと、ラノベ原作アニメ それも「異世界転生もの」とされるジャンルの作品が市場を占拠した。こうした状況下は、エクスプロイテーション的な作品の消費を加速させたと筆者は感じる。つまり、一つの作品を消化するのが乱雑になってきていると感じるのだ。こうした作品たちを見ているうちに、筆者の中で疑問が生じた。今までの人生で楽しめてきた深夜アニメと、新しく台頭してきた深夜アニメ。そして映画は、何が違って、どこまでが許せるのだろうか。さて、ここからが本題となる。まずは深夜アニメや漫画の作劇について考える。

第1章 真実と虚構の配置

大きく分けて、深夜アニメの作劇及びキャラクターの配置については、以下のように分けられる。

① 実在感のある舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現実の社会、ないしはそれを想起させる舞台に、フィクションでしかなしえない設定を持ちえたキャラクターを配置する手法。キャラクターへの感情移入ではなく「描写」で物語を転がすタイプであるといえる。基本的に、日常系アニメとされている作品の半数はこのタイプだ。この手法の長所として、嘘くさいキャラクターが存在することによるノイズがなくなるという事が挙げられる。キャラクターの実在感は、表現物において最重要視されるべき概念である。本来ならノイズが生じるような現実感のないキャラクターを、外部の舞台設定でコーティングすることによって、作品内リアリティラインの担保へとつながるし、なによりストレスフリーになり、日常系アニメ本来の魅力がより際立つのである。具体例を挙げると、ここ最近で観たアニメの中で一番例に挙げやすいので使わせてもらうが、「三ツ星カラーズ」はまさにこの手法のお手本のような日常系である。f:id:slyuroder:20180313163509p:plain

 東京・上野のとある公園の草むらに、結衣さっちゃん琴葉の小学生女子3名から成る「カラーズ」という(自称)秘密組織のアジトがあった。カラーズの3人は知り合いの商店街の店主や警官、高校生たちと交流しながら、上野の平和を守るために、日夜(ただし夜は家に帰っている)行動していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E6%98%9F%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA

 あらすじを見ればわかると思うが、上野という実際に存在する町を舞台にして繰り広げられるのは、現実には絶対にいないであろう、女子小学生3人のアンサンブル。しかし、観ていてストレスがないのは、上野という街を舞台にしたことによるリアリティラインの設定が地盤を固めることによって、アニメ的なウソを受諾しやすい環境へ視聴者を導いているからだと思う。一つのウソを周りの真実が補強しているのだ。それによって、俗にいうアド街的な面白さを引き出す事にも繋がっている。こうした地固めを行っているかいないかで作品のクオリティには大きな差が出ると感じる。

② フィクショナルな舞台設定に、実在感のあるキャラクター

この手法は、主にSF等現実離れした設定で話を進めるタイプの作品に適応される場合が多い。具体的な例を挙げると、「攻殻機動隊」等の作品が挙げられる。前者とは逆に、キャラクターへの感情移入で物語を転がすため、脚本の完成度がより重要になる手法ともいえるだろう。その意味で、ここ最近の中で最も脚本の完成度が高いと感じたアニメは「宇宙よりも遠い場所」だ。

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そこは、宇宙よりも遠い場所──。

 何かを始めたいと思いながら、中々一歩を踏み出すことのできないまま高校2年生になってしまった少女・キマリこと玉木マリ(たまき マリ)は、とあることをきっかけに南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ)と出会う。高校生が南極になんて行けるわけがないと言われても、絶対にあきらめようとしない報瀬の姿に心を動かされたキマリは、報瀬と共に南極を目指すことを誓うのだが……。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E9%81%A0%E3%81%84%E5%A0%B4%E6%89%80

この作品の一番の美点は、凄まじい実在感を誇るキャラクター造形であると思う。まず偉いのは、主人公である玉木マリのキャラクター造形であろう。彼女がこの作品のテーマ的な意味での体現者だ。つまり、若者とは「ここではない何処か」への憧れこそが行動の原動力である ということだ。それを最終的には、旅=人生という形で修練させていった脚本は秀逸である。このキャラクターを成立させた時点でこのアニメは「勝ち」なのだ。物語的な推進力を担保するのは小淵沢報瀬だ。間違いなく彼女がこの物語の中心である。特に彼女のエモーションと物語の盛り上がりがシンクロした12話のメールの演出は非常に見事であったと思う。そして、他に南極行に同行する2人のキャラクター三宅日向と白石結月にも共通することだが、この4人は皆、他の人間には抱えている葛藤が理解されていない孤独な存在である。そんな4人が南極到達と言う点で交わり、個々人の抱えるものが解放されていく。「スタンドバイミー」などに代表されるように脚本として非常に王道かつ、エモーションが伝わりやすい構造だ。だが、この作品は「夢追い人への賛辞」だけでは終わらない。きちんと玉木マリの友人である高橋めぐみのエピソードを通じて、夢を追う事とは、他の何かを犠牲にしなければならないのだという呪い的な側面まで示してもいる。デイミアンチャゼルの「セッション」や「ラ・ラ・ランド」も連想させる。だが、この作品が伝えたいことは、その側面ではない。何かをやり続ければ必ず報われる時が来る。他の奴など気にするな。ということである。どちらかと言えば、「ショーシャンクの空に」的なアプローチと言える。その側面が最も凝縮されたのはやはり9話の「ざまあみろ」である。あの場面のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。そしてそのテーマは13話のラストでの高橋めぐみの行動によって、誰かが夢に向かって進む姿は、他の誰かに波及していく。という領域まで到達する。ここでも涙が出てしまった。他にお気に入りなのは、白石結月関連のエピソードだ。彼女の「友達が欲しい」という悩みと、経験したことがないからこそ、つい友情と言うものを外部化してしまう彼女の行動には非常に胸を撃たれる。だが、そんな彼女に応えるほかの3人の行動にも、また泣かされてしまう。3話のラストなどはまさに自分のツボを押さえた展開であった。このように、殆ど全話に泣けるポイントが用意されているのも魅力の一つであろう。それも決して押しつけがましいものではない。まとめると、今後ここまでのクオリティの作品が出るのか疑問が残る位の傑作である。未見の方はぜひ観てほしい。

③ 実在感のある舞台設定に、実在感のあるキャラクター

闇金ウシジマくん」等現実の社会問題などを描くタイプの作品に使われる手法。というか、この手の作品はこの手法でなければ物語自体が成立しない。そういう意味では、映画的な表現に最も近いといえる。

④ フィクショナルな舞台設定に、フィクショナルなキャラクター

現在の日本のエンタメの主流であり、ジャンプに連載されている漫画のほとんどはこの手法だ。基本的にこの手法は通用する年代の範囲が狭くなりがちだが、たまに物凄い傑作が生まれる場合もある。具体例を出すと「ファイアパンチ」のような作品である。f:id:slyuroder:20180313173507j:plain

はっきりと言わせてもらえば、この作品が漫画史的事件だと捉えられない人間とはお友達にはなりたくない。漫画的にして、映画的。人生と言う与えられた役割を演じるしかない人間達の滑稽さ。運命とは透明なレールの上を歩かされる隷従ではないのか。そして、人はなりたい自分になってしまうのだ。ここまで荒削りでアナーキーで、パワーのある漫画は見たことがない。「映画」というモチーフがコマ割りからシナリオ、メインテーマにまで有機的に絡み合う見事な構成。これこそが芸術なのだと身を持って宣言できる。

ここまでは深夜アニメ、漫画編。基本的にこの2つは敷居は低い。複雑な論考を上記ファイアパンチ等の一部の作品以外はそれほど必要としないからだ。次の映画についてのほうが、敷居は高い。

第2章 「映画的」とはなにか

映画と言うメディアにおいて望ましいのは、説明セリフでなく、映像で説明することである。何故ならば、映画とは3次元の人間が演技をする様子をカメラでとらえているからであり、アニメや漫画とはそもそもの次元、前提条件が違うのだ。第1章で提示した作劇のパターンは、映画においてはよりハイリスクハイリターンになる。しいて言うなら、①は少ない傾向にある。映画と言うメディアではキャラクターの実在感の無さはより深刻な問題点になるからである。③が最もポピュラーであるのは当たり前だが、②と④も多い。しかし、この2つを完璧に達成するのはアニメ、漫画以上に難しい。最高レベルのVFXと、それに負けないくらいの演出力が求められる。古典で言えば、「ブレードランナー」最近で言えば、マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群がそれらの中では最高のクオリティを達成している。そして、それが達成された暁には、映画と言うメディアが克明に映し出すリアリティの恩恵に預かることになる。これこそが、ハイリスクハイリターンと言った由来だ。いずれにしても、製作者の努力なしでは達成しきれない。また、観客側のリテラシーも問われる。②の作品の特に顕著だが、SF ホラーというジャンルの表面だけを見て判断してはいけない。実際には、それ以上の普遍的なメッセージを伝えたい場合がほとんどである。具体例を挙げれば「トゥモローワールド」や「イットフォローズ」などがあるだろう。こういったメッセージを読み解く能力も確実に必要である。説明を求めるだけの受け身な姿勢を取るのはやめたほうがいい。何故なら、作品のレベルも比例して低下するからだ。作り手にバカだと思われたくなければ、自分からの勉強が不可欠である。こうして観客のリテラシーも意識しなければならない。さて、そろそろこの駄文を終わらせようと思う。

まとめ 

ここまでアニメ、漫画、映画の作劇について書いてきたが、全てにおいて共通するのは、バランス感覚を間違えると終わりなことだ。これが原因で駄作になった作品は数知れない。「ご注文はうさぎですか?」「ラブライブ!」「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」「ダーリンインザフランキス」「トランスフォーマー ロストエイジ」「幸せのちから」などなど、挙げればきりが無いほどに有象無象がひしめき合っている。しかし、逆に言えば、それらの作品の屍を超えて、傑作や良作は生み出されてもいるのである。何が良くて、何がダメなのか。その取捨選択を行うのは我々視聴者であり観客側である。しっかりと自分の中で基準を理論化し、そのものさしに当てはめる。一見当たり前で単純なことだが、それが一番大事だと思う。その延長線上として感想をアウトプットするのも重要である。そうすることで、より自分の思考を確固たるものとして、アイデンティティの糧にできる。そういったことをより多くの人間が実践すれば幸いである。今回の駄文はこれにて終わります。最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。それでは、また別の機会に。

 

最もハズレの少ない映画ジャンル「音楽映画」を語ってみる

 

今回は、僕の経験上、外れを引く確率が最も低いであろうと思われる「音楽映画」というジャンルについて語っていこうと思います。取り上げるのは、映画初心者にもお勧めで、音楽映画の最も根源的な魅力が詰まった作品たちです。それでは、本文をどうぞ。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

稀代の音楽映画作家 ジョン・カーニーの魅力

1.沈みそうな船で家を目指そう「ONCE ダブリンの街角で」

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ダブリンの街角で毎日のようにギターをかき鳴らす男はある日、チェコ移民の女と出会う。ひょんなことから彼女にピアノの才能があることを知った男は、自分が書いた曲を彼女と一緒に演奏してみることに。すると、そのセッションは想像以上の素晴らしいものとなり……。

ジョン・カーニー監督の音楽映画シリーズ第1作となるこの作品。インディペンデント映画であり、全米ではわずか2館からのスタートとなりましたが、口コミが話題を呼び140館まで上映館を増やしたほか、劇中でとても印象的に使われる主題歌「Falling Slowly 」がアカデミー歌曲賞を受賞するなど、高い支持を集めた作品です。ジョン・カーニーの音楽映画の何が特徴かと言うと、音がリズムになり、リズムが重なり、フレーズが歌になり、やがて一つの「楽曲」となっていくまでのプロセスの多好感がこれ以上なく描写されている点です。それが、インディペンデント映画ならではの荒削りでパワーのある画面構成と、アマチュア楽家の不器用な恋愛物語に物凄くマッチするのです。そして、この作品の凄いところは、イギリスの移民問題といった現実の社会問題までも描写して見せることです。つまり、これは現代流にアレンジされた「ロミオとジュリエット」的な格差を抱えた男女の物語でもあるということです。その結末は、決して幸せな物でもありません。しかし、この切なくも力強い物語こそがこの現実に響く詩なのだとおもいます。なぜならば、この物語の主人公たちには名前がありません。つまり、それこそがこの物語の普遍性を象徴しているのです。

2.僕たちは皆、闇を照らすのに必死な迷える星なのだろうか?「はじまりのうた」

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 製作した曲が映画に採用された恋人のデイヴとともにイギリスからニューヨークへやってきたシンガーソングライターのグレタだったが、デイヴの浮気により彼と別れて、友人のスティーヴを頼る。スティーブは失意のグレタを励まそうとライブバーに連れていき、彼女を無理やりステージに上げる。グレタが歌っていたところ、偶然その場に居合わせた落ち目の音楽プロデューサー・ダンの目に留まる。ダンはグレタに一緒にアルバムを作ろうと持ち掛ける。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 この映画が、僕のジョン・カーニー監督作ベストです。前述した音楽が生まれる瞬間のカタルシスが、ニューヨークの町中のいたるところでレコーディングをするという物語にバッチリハマり、更にそこから現実を生きるために必要な音楽の尊さ。という領域にまで達します。グレタとダンが一つのメディアプレーヤーを分け合いながらニューヨークの町中で音楽を聴くシーンはまさにこの映画のテーマ性を象徴する名シーンであると思います。そして、この映画の主題歌である「Lost stars」は本当に素晴らしい曲です。劇中では、グレタがデイヴに送った曲と言うことになっています。最初にグレタがこの曲を歌う時は、別れてしまったデイヴを思い出すかのように歌いますが、2回目。デイヴがこの曲を次に歌う時、原形をとどめないほどに改編されたこの曲を聴いて、2人は相いれない存在だということが浮き彫りになってしまいます。そして、デイヴが歌う3回目。それは、本来の姿を取り戻したLost starsでした。デイヴを演じるアダムレヴィ―ンはMaroon 5のボーカルなだけあって、抜群の歌唱力ですべてを持って行ってくれます。デイヴの歌声を聴いて、グレタは涙を流します。そして、彼女は静かにデイヴのもとを去ります。彼はスターになった。やはり自分とは違うのだ。そう悟ったのだと思います。このように、同じ曲を複数回にわたって違う意味を持たせて使うという手法が音楽映画の生理的快感が詰まっています。この映画は、悪い人が出てきません。グレタとダンも、決して恋愛関係になることはなく、必要以上のドラマは描きません。だからこそ、音楽それ自体の幸福が、より純度が高く描かれます。誰が観ても楽しめる傑作です。まだ観てない方はぜひ観てください。

3.何があっても立ち止まるな「シングストリート 未来へのうた」

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1985年、大不況のダブリン。人生14年、どん底を迎えるコナー。父親の失業のせいで公立の荒れた学校に転校させられ、家では両親のけんかで家庭崩壊寸前。音楽狂いの兄と一緒に、隣国ロンドンのMVをテレビで見ている時だけがハッピーだ。ある日、街で見かけたラフィナの大人びた美しさにひと目で心を撃ち抜かれたコナーは、「僕のバンドのPVに出ない?」と口走る。慌ててバンドを組んだコナーは、無謀にもロンドンの音楽シーンを驚愕させるPVを撮ると決意、猛練習&曲作りの日々が始まった――。

http://gaga.ne.jp/singstreet/

 

この映画は、日本ではカルト的な人気を誇る作品です。何がカルト的なのかと言えば、この物語は、特に全ての「兄弟たち」に捧ぐ物語であるからだと思います。ここでいう兄弟と言うのは、生物学上の意味も勿論ありますし、ジョン・カーニー監督の自伝的な映画でもあるこの映画に共感したソウル・ブラザーの事も指しています。そして、抑圧された環境に対する不満を音楽に変えるという今まで以上にロックンロールな音楽観を持った物語は、どうしたってカタルシスを産むものです。この映画の主題歌である「Go now」はまさにこの映画にぴったりな、夢に向かって突き進む若者への賛歌になっています。音楽的にも、歌詞的にも非常に胸が熱くなります。この曲が流れるEDは涙なくしては見られません。

 

Hey, we're never gonna go if we don't go now
いま行かないならいつ行くんだ?
You're never gonna know if you don't find out
君が探し出さなければ誰が見つけられる?
You're never going back, never turning around
君は決して引き返さないし、横道にそれたりしない
You're never gonna go if don't go now
いま行かなければもう行くことはできない
You're never gonna grow if you don't grow now
いま変わらなければもう変わることはできない
You never don't know if you don't find out
いま探さなければもう見つけることはできない
You're never going back, never turning around
君は決して引き返さず、横道にそれることはない
You're never gonna go if you don't go now
いま行かずにいつ行くんだ?

You're never gonna go if you don't go now
いま行かなければ一生ここにいる事になる
You're never gonna know if you don't find out
いま行動を起こさなければ一生知らないままだ
You're never turning back, never turning around
きみは決して戻ったり、迷ったりしない
You're never gonna go if you don't go
行くチャンスはいましかないんだ

引用元

 http://blog.livedoor.jp/yamashu_85/archives/3686951.html

 この映画は、今に不満を持っているすべての若者にお勧めできます。そういう意味では、次に紹介する作品も同様です。

本当のことは歌の中にある「夜明け告げるルーのうた

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寂れた漁港の町・日無町(ひなしちょう)に住む中学生の少年・カイは、父親と日傘職人の祖父との3人で暮らしている。もともとは東京に住んでいたが、両親の離婚によって父と母の故郷である日無町に居を移したのだ。父や母に対する複雑な想いを口にできず、鬱屈した気持ちを抱えたまま学校生活にも後ろ向きのカイ。唯一の心の拠り所は、自ら作曲した音楽をネットにアップすることだった。 ある日、クラスメイトの国夫と遊歩に、彼らが組んでいるバンド「セイレーン」に入らないかと誘われる。しぶしぶ練習場所である人魚島に行くと、人魚の少女・ルーが3人の前に現れた。楽しそうに歌い、無邪気に踊るルー。カイは、そんなルーと日々行動を共にすることで、少しずつ自分の気持ちを口に出せるようになっていく。

 しかし、古来より日無町では、人魚は災いをもたらす存在。ふとしたことから、ルーと町の住人たちとの間に大きな溝が生まれてしまう。そして訪れる町の危機。カイは心からの叫びで町を救うことができるのだろうか?

http://lunouta.com/

天才アニメーター湯浅政明の初のオリジナル作品です。物語はいうなればセカイ系ですが、他のセカイ系のように内に閉じた世界観ではなく、全ての人を救済する優しさがこの映画には詰まっています。むしろ逆で、主人公のカイ君は、自分と言うものを発揮できない心を閉じた中学生ですが、ルーというイノセントを内包した少女との出会いによって、彼は本来の明るい性格を取り戻していきます。そして、この映画の白眉といえるのが、カイ君が「歌うたいのバラッド」を歌うシーンです。序盤から貼られてきた伏線と、作劇上のエモーショナルの高まり、カタルシスが完全に一致して、涙があふれる素晴らしいシーンです。ここまで長々と語ってきましたが、改めて音楽映画の素晴らしさをまとめたいと思います。

・曲の歌詞が物語とシンクロするカタルシスを味わえる。

・同じ曲を何度も使うことによってその意味合いの違いを感じることができる。

・人間の精神構造上、視覚と聴覚両方に訴えたほうが感情の変化の度合い(泣かせ度)は大きくなる。

・よって、音楽映画は誰が観たとしても一定の開かれたカタルシスを感じられる。

今回はこれで終わりです。御意見等あれば遠慮なく言ってください。それでは。

 

 

僕の好きな劇場用長編アニメーションについて。 アニメ映画は、「イノセントの消失」によって繋がっていく。

今回は、リクエストがあったので、劇場用長編アニメーションをテーマに、僕の好きな作品を語りたいと思います。大きく分けて2つ 日本と海外のアニメ映画に分けて話を進めていきます。そしてそれらの作品に潜む共通のテーマ「イノセントの消失」についても論じていきます。それでは、本編をどうぞ。

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

日本製長編アニメーション 宮崎駿という作家

日本製長編アニメーションを語るうえで、やはり宮崎駿は外せません。「風の谷のナウシカ」より始まったスタジオジブリ作品の歴史は、今や全世界的なカルチャーになっています。彼の作品には、やはり明確な作家性が存在します。何かと言えば「イノセントを持つ子供が、世界の暗部を知り、大人になる話」であるといえると思います。つまり、毎回「不思議の国のアリス」をやっているともいえます。アリスこそ、「イノセントの消失」つまり、子供から大人になり、純粋さを失い、汚れた世界に向き合っていく物語の典型例です。それに加えて、汚い世界の肯定を行うのが宮崎駿です。ナウシカの原作版(腐海を巡る価値観)を見ればよくわかりますし、魔女と宅急便における「魔法」の在り方(風邪をひくことで魔法が使えない=少女が初潮を迎え、女になることの象徴。黒猫のジジとはもう話せなくなってしまう。最も不思議のアリスに近い。)千と千尋における銭湯(湯屋 ソープランド及び性風俗産業)などに見られる汚れた世界の真実。その中で子供が成長していく物語として、宮崎駿作品は非常に論じがいがある作品群であると思います。では、これ以降のアニメ作家は何を生み出してきたのか。

細田守と言うアンビバレント

最初に言っておくと、僕は細田守作品が好きではありません。確かに、ことアニメ的快感。つまり、「何気ない日常の所作をアニメで再現する」という快感の面ではかなり質が高いと思います。ですが、はっきりと問題点が多い作品も目立ちます。特に「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」の3作については、特にその傾向が顕著であると思います。サマーウォーズは、キャラクターの層の浅さ、プロットが過去作のデジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲームの流用である点。おおかみこどもは、2人の子供の生き方の対比が、結局人間側の登場人物に物語上の力点が集中しているために意味をなさない点。バケモノの子は、後半の展開の観念性の高さから生じる寓意性が、最後の最後の着地で台無しになり、イノセントの消失と言うテーマがもろくも崩れ去ってしまった点が、大まかな問題点だと思っています。彼が、ポスト宮崎駿と言われているのは、ある種「国民的」であり、お行儀のよいアニメーションを作れる作り手としての面を指しているのでしょうが、前述したように、宮崎駿は決して国民的なアニメーションとは言えないようなテーマを扱っています。つまり、細田守宮崎駿性は作画のキャッチーさ以外ないのではないでしょうか細田守がポスト宮崎駿として挙げられるのにはいささか不満ですが、最新作の「未来のミライ」もどんな作品なのか、気になる面はあります。彼がいつか化ける日が来るのか、神妙に待ちたいと思います。

世界の片隅で、生を肯定した人間賛歌この世界の片隅に

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この作品は、日本アニメ史に残る、それどころか、日本映画史に残るレベルでの大傑作であることはみなさんもご存じでしょう。僕のオールタイムベストのうちの一本でもあります。改めてこの作品を説明するならば、原作の絵のタッチを完璧に再現した温かみのある作画や、徹底的にリサーチを重ね、歩いている通行人一人ひとりが実在する時代考証の正確さ。それによって、初めて70年前の生活がリアルに感じることが出来ました。そして、時代に翻弄された一人の女性、すずが抱いていたかすかな幻想が戦争によって踏みにじられ、無垢な少女が否応なく過酷な現実を直視せざるを得なくなる。これぞ、「イノセントの消失」です。彼女が右手と晴美を失うという展開もこれに該当します。この展開の後、急に画面がゆがんだような作画になりますが、彼女の内面から見た世界のゆらぎを象徴したシーンです。原作だと本当に左手で書いているというのですから凄いものです。そして、この物語は最終的に、現実を生きることを肯定してくれます。自らの手で描く絵と言う幻想でしか現実に対抗できなかったすずは、右手を失ったことによって、体で現実に向き合い、周作と喧嘩をしたり、世界に対して声を上げて慟哭するようになります。そして、彼女は多大なる代償を乗り越えて、この世界の片隅で周りの人たちの「笑顔の入れ物」になることを選びます。それこそが、70年後の世界を生きる我々の心に確かに響く、「生の肯定」なのです。 さて、次は海外の長編アニメーションについて論じていきます。

ディズニー・ピクサーの3DCGアニメーション 在りのままの世界を描き出す作品たち

ディズニーといえば、これまた全世界的な映画会社です。主力のアニメーションにくわえ、スターウォーズなどと言ったドル箱シリーズをサブウェポンとして所持しているとてつもない会社です。さて、ディズニーと言えばアニメーションですが、その中でもプリンセスストーリーが伝統のシリーズです。ですが、今日的な価値観で往年のディズニー作品を観返すと、いささか不自然に感じられてしまう部分もあります。それらの点を、ここ最近のディズニープリンセス物は解消しようと努めてきました。その中でも僕が最も好きなのは「塔の上のラプンツェル」です。前作「プリンセスと魔法のキス」から始まった「異性愛の成就が物語の結末ではない」「ポリティカリーコレクトに配慮したキャラクター描写」と言った要素が次作の『アナと雪の女王』よりも優れていると感じました。最近は、それ以外の3Dアニメーション部門が好調です。「シュガーラッシュ」に始まり「ベイマックス」「ズートピア」と言った傑作を連発しています。

そしてピクサーですが、「イノセントの消失」というテーマに近い作品を作っているのはこっちのほうだったりします。ピクサー作品の特徴として、作り手の等身大で作品を作っているところが挙げられます。「トイストーリー」ならば、子供を喜ばせる職人仕事としておもちゃを描きましたし、「モンスターズインク」は子供が出来てあたふたする父親の話です。その中でも、「イノセントの消失」に最も近いのは「インサイドヘット」でしょう。12歳の心のバランスが崩れた少女の頭の中を映像化するという内容ですが、これも監督の実体験が元になっています。そして、この映画に出てくる登場人物の中でも、やはりビンボンというキャラクターが辿る結末には号泣してしまいました。彼は、全ての一人っ子、空想家に送るレクイエム。非常に普遍的な感動をもたらしてくれます。

さて、ここまでは大手のスタジオの作品をご紹介していましたが、マイナーめなスタジオの作品をご紹介します

物語を物語る意義 「KUBO クボ 二本の弦の秘密」

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僕の2017年ベスト1の作品です。この作品は、ストップモーションアニメーションで作られています。3秒を作るのに1週間はかかったといわれています。ですが、それに見合うだけの圧倒的なアニメーションの迫力と「生きている」キャラクターに溢れています。クボ然り、サルの母性と厳しさを併せ持ったキャラクター。クワガタの抜けているものの、決めるときはビシッと決めるかっこよさのバランスが、とてもすてきだと思いました。敵方である月の帝や闇の姉妹の愛憎入り混じる屈折した感情表現も素晴らしかったですし、なによりも、「人はなぜ物語を必要とするのか」というメインテーマが行き着く着地としてはあまりにも見事な落ちのつけ方。そしてラストの圧倒的にエモいシークエンスの美しさ。徹底的にリサーチされた日本描写が、ここにつながっています。ここまで感受性を刺激された作品もそうそうないです。非常に素晴らしい傑作。ぜひ皆さん観てください。

あとがき

ここまで書いてきて、自分でも今まで挙げてきた作品のほぼすべてに「イノセントの消失」が作品の要素として含まれていることに驚いています。やはり、元来子供向けとされてきたアニメと言うメディアの反動として、幼年期の終りと言う物語構造が志向されるのではないのでしょうか。そのような作家性をも包括するテーマが存在するのは興味深いことです。以上で、この駄話を終えたいと思います。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

アイデンティティーの消失の果てに 「ブレードランナー2049」

 

今回は、自分の琴線にダイレクトに引っかかった映画に出会い、是非とも文章を書きたいと思ったので、記事を書きたいと思います。僕がこのブログでもたびたび書いてきた「アイデンティティー」についての映画でもありました。過去の記事についてはこちらのリンクからご覧ください。

それでは本文に移りたいと思います。

 

 

注意 今回紹介する作品は、ネタバレ厳禁な映画となっています。未見の人がこの記事を回覧することを想定していませんので、ご注意を。

 

 

 

不可能を可能にしてしまった映画 「ブレードランナー2049」

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http://saku-ara.com/archives/3765

 2049年遺伝子工学によって誕生したレプリカントはさらに進化を遂げ、より人間に近づいていた。一方で、旧型モデルのレプリカントは人間にとって代わろうとするなど、危険視されて排除されていた。その排除の役目を担うのは、新型レプリカントであり、彼らはブレードランナーと呼ばれた。Kは、LAPDのためブレードランナーとして忠実に働き、古いモデルのレプリカントを逮捕・抹殺していた。  Kは任務の中で、「子供を出産した女性レプリカント」の遺体を発見する。Kの上司は、その事実にショックを受け、世界の秩序を守るために子供の処分をKに命じる。捜査の中で、Kは自分に幼少期の記憶があることに気づく。そして、自分こそがレプリカントが産んだ子供ではないかと考え始める。そして、ついに彼は子供の父親である元ブレードランナー「リック・デッカード」に出会うのだった。

 

僕はこの映画 絶対に失敗すると思っていました。なぜならば、この映画は、「ブレードランナー」の続編だからです。ブレードランナーを一度でも観たことのある人の内100人中100人が、続編と言う企画が成功するとは答えないでしょう。あまりにも前作の存在は巨大であり、その続編ともなると、出来が危ぶまれていました。しかし、やってくれました。ドゥニヴィルヌーヴ監督は見事に成し遂げたのです。まさかここまで感情を揺さぶられるようなエモーショナルな映画になっているとは思いませんでした。では、具体的な内容の話をしていきます。

 

1 Kと言う男が抱えるもの

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まず、この映画を語るうえで外せないのが、主人公であるKのキャラクターでしょう。

彼はネクサス9型でありながら、ブレードランナーとして同族を殺す仕事をしている男です。しかし人間達からは蔑まれ、友達はおらず、自宅のドアにも悪意ある落書きがされている有様でした。彼は徹底して「孤独」を抱えたキャラクターです。そんな男をライアンゴズリングに演じさせたのが、まず何よりも素晴らしい点です。ライアンゴズリングは「ハーフネルソン」「ラースと、その彼女」「ドライヴ」などで「本質的には孤独である男」を演じてきました。今回のKも、その系譜に連なる役であると思います。Kは、サッパーと言うレプリカントを「解任」する任務の途中に発見した子供を産んだ形跡のあるレプリカントの遺体と、その子供が預けられた孤児院で、自分が元々持っていた木馬を隠した記憶と完全に一致した情景を見て、自分こそがレプリカントと人間との子供であると感じ始めます。その真相を確かめるべく、30年前に逃亡したブレードランナー デッカードのいるラスベガスへと向かいます。Kと言う男は孤独だといいましたが、彼を唯一理解し、健気な愛情を注いでくれるのは、ホログラムのジョイという存在です。

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彼女を演じるアナ・デ・アルマスは、この映画で世界中の観客を虜にしたことでしょう。かくいう私もその一人です。孤独な男をたった一人理解してくれる女の子も、プログラムされた愛情であり、実体はなく、決して交じり合えないという残酷さ。彼女が何とか実体を得ようとして、娼婦の女の子と自分を同期させてまでKと交わろうとするシーンは切なくて泣いてしまいました。しかし、彼女が「死」という一点で人間と同一になり、Kの孤独な旅路に同行します。ですが、ここからKの不幸の連鎖が始まります。レプリカントの記憶を作る技師に会いに行き、自分の記憶を判定してもらいますが、木馬の記憶も、実は作られた記憶であることが判明します。さらに、デッカードに会いに行ったは良いものの、敵の尾行にあっており、デッカードも連れ去られた挙句、ジョイを失ってしまいます。ここまででも十分に不幸な目に合っていますが、これが最後ではありません。これを含めた物語の最終盤の部分は後述します。次は、デッカードを含む残りのキャラクターについてです。

2「愛」を抱えたキャラクターたち

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前作でレプリカントのレイチェルと共に逃亡したデッカード。30年後の彼は、放射能渦巻くラスベガスで隠遁生活を送っていました。彼は、レイチェルとの間に子供を授かることが出来ました。ですが、レイチェルは子供を産むと同時に死亡。当局に追われる可能性があったために、出産に立ち会うこともなく、子供と生き別れになり、一人孤独に生きることを選んだのです。「誰かを愛するためには、時に他人にならなければならない。」彼の選択はひとえに、レイチェルへの愛のためでした。だからこそ、ウォレスによって作られた30年前の姿を完全に再現したレイチェルを目の前にしても「彼女の瞳は緑だった」と言って拒否します。彼によって自分たちの愛は仕組まれたものではないかとと問いを投げかけられても、彼はブレません。愛を貫き通した男として、非常に完成されていました。

 

レプリカントを製造するウォレス社の社長。ウォレスは、創造主であり、神を目指す男として描かれています。命を生かすも殺すも自由な彼は、自らの作ったレプリカントを「天使」と呼びます。このような点も含め、聖書的なモチーフが多いです。「悪い天使がいた」と彼は言いますが、これは前作での最重要キャラクター「ロイ・バッティ」の事です。「失楽園」における創造主たる神を裏切った大天使ルシファーです。それに対し、忠臣のような役割を果たすのが、ネクサス9型の殺人レプリカント ラヴです。

彼女はウォレスを愛する大天使の役割を果たします。彼女は人を殺すときに必ず涙を流します。これも、共感性が備わったネクサス9型ならではの特徴と言えるでしょう。

このように、この映画の登場人物は、それぞれが「愛」を抱えています。それがプログラムされていた物だとしても、人を愛する気持ちに、優劣はありません。人間かレプリカントか。その違いはもはや存在しないといっていいでしょう。大事なのは、どう生きるか。人と機械の差は、そのようにして判断されるのではないのでしょうか。では、最終盤の展開について言及していきます。

3 大義のために死ねるか? 他人のために死ねるか? 

レプリカントによるレジスタンス組織に救出されたK 彼はそこで、信じがたい真実を聞くことになります。レイチェルの子供の性別は女の子であり、男の子ではないということです。自分がその子供だと信じてきた彼の希望は、無残にも打ち砕かれてしまいます。しかしそれでも、彼は自分がレプリカント以上の存在になるために、「大義のための死」を成そうとします。ラヴによってオフワールド(外宇宙)に連れて行かれそうになっていたデッカードを救出しようとします。彼はレジスタンスに、デッカードを殺すよう指示を受けていましたが、殺すことはせず、レイチェルの娘であるレプリカントの記憶技師、アナ・ステリンの元へデッカードを連れて行きます。そこで彼は、自分の偽造された記憶である木馬を、デッカードへと渡します。それによって、自分と言う存在がデッカードの記憶の中に存在し続けることを願ったのでしょう。Kは、ラヴとの戦いで負った傷のせいで、地面に倒れこんでしまいます。そこでは雪が降っていました。その雪を見つめながら、彼は死んでいきます。前作のブレードランナーが雨の映画だとしたら、今作はまさしく雪の映画でしょう。Kと言う男の生き様が、雪によって象徴されています。このシーンで流れる音楽は、前作においてロイ・バッティが雨の中で独白をする名シーンの音楽がそのまま使われています。30年前に「愛」に目覚めたレプリカントに助けられたデッカード。そしてまた、彼は父と娘の「愛」のために戦ったレプリカントによって再び命を救われたのです。このラストシーンは、非常に感動しました。それまで存在を否定されてきた男が、誰かのためにその命をささげる。僕の大好きな物語構造です。世界から切り離されている男の右往左往。これは遠い未来の話ではなく、今現在のSNS時代の人間の象徴ともいえます。コミュニケーションと言う概念が希薄になっているこの時代、誰かのために、愛のために生きることが本当の意味で出来る人間が果たして存在するのでしょうか。人間の本質とはなんなのか?「愛」である。この映画はそのメッセージを、儚くも力強く、我々に伝えてくれたような気がします。

4 アンドロイドは人間の夢を見たか?

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は今作の物語は「ピノキオ」であるとインタビューで語っています。どちらも人間になろうとする男の物語です。それに加えて、僕は同じくピノキオを元にした作品である「A.I」も連想しました。主人公がどんどん不幸な目にあって行くのも似ていますし、「愛」の物語である点も共通しています。主人公が辿る結末も似ています。ブレードランナーと言う映画の本質は、生命体が持つ感情を巡る話だと思っているので、この点をさらにブラッシュアップしてきたことをうれしく思っています。前作では感情の中心が主人公ではないという問題点?がありましたが、今作はしっかりと主人公に感情移入できます。不可能だと思われた続編を、こんなヒューマニズムあふれる物語に仕上げるなんて、僕は思ってもみませんでした。非常に素晴らしい傑作をありがとう、ドゥニ・ヴィルヌーヴ

「仮面ライダークウガ」と「ダークナイト」の本質は、同じである。

今回は、ふとした会話から生まれた記事です。

以前このような記事を書きましたが、今回もこの記事に近いような内容になると思います。作品を貶す内容である訳ではありませんが、本質的な「やりたい事」がこの二本は共通しています。それでは、本文をどうぞ

 

注意 今回紹介する作品のネタバレが含まれている場合がありますので、回覧は自己責任でお願いします

 

 

時代をゼロから始めよう 「仮面ライダークウガ

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98

西暦2000年。長野県山中の九郎ヶ岳で謎の遺跡が発掘されたが、棺の蓋を開けたことで目覚めた謎の存在によって、夏目幸吉教授らの調査団は全滅させられてしまう。捜査に当たった長野県警刑事・一条薫は五代雄介と名乗る冒険家の青年と出会う。雄介はそこで見せてもらった証拠品のベルト状の遺物から、戦士のイメージを感じ取る。

ズ・グムン・バに遭遇した雄介は、咄嗟の判断でベルトを装着して戦士クウガに変身した。そして、人々の笑顔を守るために怪人たちと戦うことを決意する雄介。

以後、クウガと怪人たち=グロンギは「未確認生命体」と呼ばれ、人々に認知されていく。

 

 平成ライダーシリーズ第一作となったこの作品。この作品と聞いて思い出すのはなんでしょうか。既存の作品に比べても、格段に現実に近い警察描写。気合の入ったバイクアクション。主人公五代雄介や周りを取り巻くキャラクターたちの魅力。殺人ゲームを楽しむ古代文明が敵という斬新さ。このあたりでしょうか。ですが、個人的にこの仮面ライダークウガという作品に思う事として、この作品の実態は非常にクラシカルな昭和特撮であると思っています。つまり、「斬新さ」と「センスオブワンダー」は似て非なるものだということです。個人的に、平成ライダー龍騎からが本番だと思っています。何故かと言えば、それまでの仮面ライダーでは絶対になしえなかった重層的かつ社会性を持った物語と、仮面ライダーだからこそ描けるキャラクター性を真の意味で両立できたのはこの作品からであると思っているからです。僕はこういう作品が見たいし、積極的にプッシュしたい。そう思わせるだけの何かが、個人的にはクウガと言う作品には薄かったように思えました。さて、クウガより8年が経った2008年。アメリカで一本の作品が公開されます。それは、今まで軽く扱われてきたアメリカンコミックの実写化と言う枠を超えて、一本の傑作 マスターピースとして、アカデミー賞のルールすら変えうるような作品だったのです。

そのしかめっ面はなんだ? 「ダークナイト

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バットマンが活躍するゴッサムシティでは、それまで町に蔓延っていた犯罪者たちが夜に怯えて暮らしていた。しかし、依然として町から汚職や犯罪が一掃されたわけではない。新任検事のハービーはゴードンやバットマンと共にマフィアの掃討に当たる。追い詰められたマフィアは、狂人のジョーカーにハービーとバットマンの抹殺を依頼する。

 

映画ファンやアメコミファンにはもはや説明不要の作品です。この作品の何が凄いのか。まず、2008年のブロックバスター超大作とは思えないようなアメリカンニューシネマ的なストーリーが挙げられます。人間の善意を信じようと戦うバットマンことブルースウェイン。人間が信じているものを心の底からグラつかせようと誘惑するサタン的な悪役のジョーカー この二人の対決は、「ダーティーハリー」におけるハリーとスコルピオにも通じます。善と悪 警察的な法の執行と自警行為 復讐の是非 といった、非常に複雑な対比によるテーマ性を持ったストーリー性や、劇映画としては初めてIMAXカメラを使用したことによる画面のルックの素晴らしさ。ジョーカー役のヒースレジャーが文字通り命をかけて演じたジョーカーというキャラクターの凄まじさが、この作品を日本以外の国では大ヒットへと導いたのだと思います。前述の仮面ライダークウガとの共通点ですが、どちらの作品も、「ヒーローという存在の現代的な再定義と象徴化」を行っている作品だと感じました。既存のヒーロー物の常識、お約束に縛られない作劇ではありますが、最終的なヒーロー的なる存在の落としどころは、むしろクラシカルなものであると思います。そして、この2本を評するときに、「リアル」という表現が使われることが多いと思いますが、僕は違うと思います。なぜならば、この2つの作品の目的は前述したとおり「象徴化」なのであって「リアル化」ではないのです。そもそもこの表現を使って評している人たちは「リアル」と「リアリズム」をはき違えているのではないのでしょうか。あくまでもフィクション作品に求められているのは現実世界とリンクするようなメタファー 比喩的表現だと思っているので、僕は「リアル」であることが作品に必ずしも良い影響を及ぼすとは考えていません。そのうえで、我々に問題提起を促すようなクウガダークナイトのような作品(前述のとおりクウガはあくまでも踏み台だと考えていますが)が僕は好きなのです。

これで今回の文を終わります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。